音楽をやめられない愛しき30代へ スカート・澤部渡に見る「続ける」という才能

音楽をやめられない愛しき30代へ スカート・澤部渡に見る「続ける」という才能

音楽をやめられない30代を愛している。
誰もが1度はふと足を止めるこの年代で、はからずも音楽をやめられない30代のバンドマンは、この世で最も愛すべき存在のように思えてしまう。

「才能」と「若き才能」は同じようで全く違う。
私にとってはどちらも手に入らないものたけど、後者はそれはもう圧倒的に、他人の持ち物だ。

だから今日もスカートを聴いている。

誰もが一度立ち止まる「30代」の節目

スカートはシンガーソングライター・澤部渡によるソロプロジェクト。
「不健康ポップバンド」という名のもと、エモーショナルで胸に沁み入る楽曲が多いのが特徴的だ。

ラジオで流れてきたナンバーでスカートを知り、同世代ということで興味を持った。
その時、私は30歳だった。

30歳というタイミングを契機として語る者は多い。

私にとっての30歳は一段階飛躍することもなく、どちらかというと「隔たり」に近い、この飛び越えるには大きな隙間をどうすればいいのかと頭を抱える時期だった。

表面上は安定企業勤務。けれど蓋を開けば営業という競争社会で心身をすり減らすような毎日。
終わりのない不安に駆られ1人でふさぎこむことが増えていた。
削られるのは休暇日数に睡眠時間、心の端っこの部分。
心細くて眠れない深夜、がむしゃらにやっていた「若さ」に帰れない現実を食らって、ベランダに出てスカートを聴いた。

すると懐かしさと独創性が入り混じったメロディが沁み入り、心臓が元のテンポに戻っていくような感覚がした。
気付けば夜明けまでスカートを聴いていた。

何でもできるがゆえの運命とは?

澤部渡の手には数々の才能がある。
歌い手の才能、メロディメーカーの才能、演奏技術の才能。
クリエイターとしての抱えきれない才能を抱いてマイクの前に立つ彼を見る時、私は震える。

同時に危惧したのだ、「この人は絶対に音楽をやめられない」と。

「やりたいことを実現する」という夢の手前で、去っていく仲間をただ眺めたこともあるんじゃないだろうか。
他人の恵まれた環境に絶望したこともあるんじゃないだろうか。
それでも音楽をやめられない。なぜなら澤部渡の手にもまた、ありあまるほどの才能があったから。

それは呪いを孕んだ運命だった。
何の才能も持たない私はその幸福を羨んで、同じ量だけ心配した。

 

仕事を休みがちになった時期、私の元に届いたのは澤部渡のこんな歌声だった。

‘‘遠回りばかりずっとしてたけど
立ち止まることにも意味はあったんだ’’

声を重ねて口ずさみながら、同世代の彼が歌うことに大きな意味を感じていた。

‘‘はじまりならいつでも傍に転がっているような気がするよ’’
‘‘今がこのまま続いて行くならば不安でも前を見ていたい’’

アーティストが魅せる音楽の余白

やりたいことを続けることもまた才能だと思っている。
いつだって「やめる」ほうが楽だ。それも、なるべく多くの人がやめるのと同じタイミングで。環境か何かのせいにして。

私は仕事を辞めた。彼は音楽をやめない。
私はしばらく休んだ。彼は音楽をやめない。
私は「やりたいこと」――文章を書き始めた。彼はまだ、音楽をやめない。

‘‘ああこのまま無防備が日々が続くように歩き出そう 風がどんなに強くても
何かが変わる予感は今はしないけど間違ってもいい果てまでいこうよ”

彼が音楽をやめない限り、私も再生し続ける。
「これだけ続けている人がいるのだから」と彼の背中に励まされてしまう。
そして再び歩き出す。才能を背負う大きな後ろ姿を追いかけるように。

アーティストが届けるのは楽曲だけではない。

楽曲の周辺、人物や生き方など余白の部分も含めて「音楽」なのかもしれない。
スカートの楽曲の余白に見たのは、多くの才能に恵まれる中で「音楽を続けること」が最も強固な才能なのだということだった。

今日もどこかで、澤部渡の音楽が、立ち止まりそうな誰かを救っている。
私は音楽を通して1人の男性の生き様を見ていたい。
そして例えばまた孤独に沈むような夜が訪れたら、その時も同じようにスカートを聴いていたい。

みくりや佐代子