『ドライブ・マイ・カー』で石橋英子が築く、静かなる映画音楽の革命とは

『ドライブ・マイ・カー』で石橋英子が築く、静かなる映画音楽の革命とは

2021年8月20日より映画『ドライブ・マイ・カー』が公開された。今や日本国内に留まらず、世界から愛される小説家・村上春樹と、世界3大映画祭での高い評価により、今をときめく濱口竜介監督のタッグが公開前から注目を集めていた本作品。

俳優陣に至っても西島俊之、岡田将生をはじめとする錚々たる顔ぶれが揃う。結果として『ドライブ・マイ・カー』は、第74回カンヌ国際映画祭にて日本映画初となる脚本賞に加え3つの独立賞も受賞し、世界にその名を世界に轟かせた。

『ドライブ・マイ・カー』ポスターヴィジュアル

映画『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録された3つの物語『ドライブ・マイ・カー』『シェヘラザード』『木野』を元に、原作とは異なるオリジナルの展開へと我々を誘う。

東京/広島/北海道と駆け抜ける、今はなき北欧車・サーブ900が紡ぐ物語を、本稿では音楽家・石橋英子制作のサウンドトラック『Drive My Car Original Soundtrack』を中心に紐解いていきたい。

※本記事では一部映画結末に触れる描写を含んでいるため、ネタバレが気になる方は映画鑑賞後にお読みいただくことをおすすめするが、これから観る方のための新しい視点の共有材料としても楽しんでいただける仕立てを心掛けた。

車の走行音が奏でる音楽

CDリリース及サブスク配信に加えて、音楽家・石橋英子が手掛けた『Drive My Car Original Soundtrack』は、映画、そして原作におけるキーアイテムとなる「カセットテープ」での限定販売も行われた。

『Drive My Car Original Soundtrack』
CDジャケット

『ドライブ・マイ・カー』は妻である音(おと)を失った演出家・家福(かふく)が、生前の妻の面影と対峙しながら、喪失の悲しみの先に希望を見出す物語である。そして舞台の練習用のカセットテープには死んだ妻の肉声が録音されており、家福はそのテープをすり切れるほどに繰り返し車の中で再生することを日課にしている。

これは『ドライブ・マイ・カー』全体に通じる内容であるが、本作における「劇伴」の定義は通常我々が目にする他作品よりもかなり幅が広い。というのも、車の走行音やドアの開閉音、モチーフとなるカセットテープの音声全てが劇中でもかなり効果的に観る者の聴覚、及び作品への意識にリンクする内容になっているためだ。

実際に『Drive My Car Original Soundtrack』を聴いてみると、その片鱗が色濃く受け継がれていることがよく分かるだろう。「Drive My Car (Misaki)」、また「Drive My Car (Kafuku)」の冒頭では、車のドアが開閉音を皮切りにエンジンが唸り出し、「Drive My Car (Cassete)」では慣れたつきでカセットテープをセットする音声が盛り込まれている。それに加え、印象的な車の走行音に対して、後半クライマックスへとシーンが切り替わっていく場面ではいささか人工的とも言える「完全すぎる静寂」を作り出すなど、作品を彩る音楽を添える意味での劇伴ではなく、無から有を、時には無さえも物語に華を添える音楽として取り入れてしまう、劇伴の新たな切り口が垣間見える。

『Drive My Car Original Soundtrack』は構造としては非常にシンプルかつミニマルだ。収められた10の楽曲は「Drive My Car」と「We’ll live through the long, long days, and through the long nights」の2つの柱に分けられている。しかし、同じタイトルでありながらも後ろに付けられた括弧書きの視点によって、そこから見える情景は姿を変える。

また石橋はインタビューの中で「そうは聴こえないようにできていますが、全部がオープニングテーマとエンディングテーマの2曲から派生してます」と語っている(石橋英子が語る、映画と音楽の関係、『ドライブ・マイ・カー』より引用)。

確かに、軽快さを感じるリズミカルなオープニング曲「Drive My Car」と、最愛の妻が遺した心の痛みがスロー・テンポに沈みゆく音の端々に感じられる「Drive My Car (Cassette)」では雰囲気が全く異なるため、同タイトルであることを除けば共通の譜面からの派生であることをイメージすることは難しいかもしれない。

最近では、YouTubeにて「Drive My Car(Kafuku)」のMV配信も執り行われたが、こちらは運転席に座り、終始口を開くことなく黙々と車を走らせるみさきを助手席から撮影したカメラワークが印象的だろう。

このMVはドライブ中の家福の視点をそのまま表したものであることから、そのほかの括弧書きにおいても、各登場人物の視点にフォーカスした音楽であることを意味しているのは明確だ。緩やかに広がりを見せるピアノの音色に重なる、サーブ900のどこまでも伸びてゆく走行音は、登場人物それぞれの視点に寄り添いながらも、物語の光と影をより鮮明にさせる。

石橋英子が描き出す、映画音楽の在り方

本作『ドライブ・マイ・カー』は主人公である家福の職業が演出家であることから、ロシア作家のアントン・チェーホフによる戯曲『ワーニャ伯父さん』を劇中劇として取り入れて物語が進む。『ワーニャ伯父さん』は絶望に耐えて生きていかなければならない人たちの姿を描き出した物語であるが故に、ただのストーリーの要素として取り入れられた劇ではなく、映画『ドライブ・マイ・カー』としての家福の未来を案じるような内容でもあると捉えられる。

サントラ内9曲目「The truth, no matter what it is, isn’t that frightening(真実は、どんなものであっても、それほど恐ろしいものではない)」とは、劇中劇のラストの「私たちは生きていきましょう」と希望を紡ぐソーニャの語りとリンクしているようにも感じられるだろう。新しい未来への階段に一段ずつ足をかけていくようなアルペジオが家福の背中を押す。

本作の監督である濱口は「最初に石橋さんと音楽についてお話をした時は、「風景みたいな音楽を」とお願いしたと思います。映画の中に流れる空気と同化しているような音楽を」と話しているともに挑んだ、村上春樹のポピュラリティ──石橋英子×濱口竜介、映画『ドライブ・マイ・カー』の音楽を語る【前編】より引用)。

石橋英子はアニメ映画も含めて6本の映画音楽を担当している。中でも本作『ドライブ・マイ・カー』の劇伴を彷彿とさせるのは、金子雅和監督の第2回長編作品『アルビノの木』(2016年)だ。人間と自然との関係性に対する疑問を集約させた『アルビノの木』では、山や自然の微細な呼吸やほとばしる川の飛沫の輪郭、そして自然が持つある種の神聖さ、また敬虔さをピアノの音色が観る人の心に印象付ける。しかし、それはあくまで映画の物語に沿った空気が語る何かであって、音楽そのものが饒舌に口を開き、観る者に作用するということではない。

『アルビノの木』(2016) ポスターヴィジュアル

石橋英子の奥ゆかしく上品な静けさを称えた映画音楽だからこそ、『ドライブ・マイ・カー』における愛するものの喪失や『アルビノの木』での自然と人間の関わり方への問題提起といった、繊細かつスケールの大きいテーマであっても、心の微細な情景のスクリーンからの還元を可能にしたのだと感じる。心の深い所で溶けていくような石橋英子の映画音楽には思わず聴き惚れてしまう次第であるが、彼女が描き出す映画音楽の本質的な語りはあくまで登場人物、または観る側である我々に委ねられていることをここに留めておきたい。

クラシック音楽と『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』では『Drive My Car Original Soundtrack』以外にもクラシック音楽が劇伴として用いられている。中でも特に印象的なのは、ベートーヴェン「弦楽四重奏曲第3番ニ長調作品18-3」の第1楽章「アレグロ」が車の中で流れる場面だ。この選曲は原作小説が由来となっていることは明確である。

‘‘帰り道ではよくベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いた。彼がベートーヴェンの弦楽四重奏曲を好むのは、それが基本的に聴き飽きしない音楽であり、しかも聴きながら考え事をするのに、あるいはまったく何も考えないことに、適しているからだったからだ ’’--『ドライブ・マイ・カー』文中より引用

家福は基本、車の中では音の声が録音されたカセットテープを元に舞台稽古を行う。だからこそ、ベートーヴェンの「6つの弦楽四重奏曲作品18」のうち、のどかな曲想でありつつ、1番初めに完成されたからこその古典的で洗練された風合いを併せ持つ「第3番」はこの場面にしっくりとくる。ベートーヴェン後期の暗澹たる深淵からの僅かなる希望への向き合い方に、『ワーニャ伯父さん』然り高槻との関係性を集結させたことも含めて、ドライブという限定的な行動と空間によって自己と向き合い、他者との関わりを前進させていく家福の後半の様子が思い浮かんだ。

また、観ている者を特に惹きつける劇中のクラシック音楽としては、家福が高槻と音の秘密の肉体関係を目撃してしまう際に流れる、モーツァルト「ロンド ニ長調 K.485」にも注目したい。

家福に対する偽りのない真っすぐな愛情を抱きながらも、複数の異性との関係を繰り返す音に対して、逃れのない疑心と不安を我々は感じる。

ロンドの明るく軽やかなリズムは一見してこの場面にはそぐわない。ところが、「ロンド形式」という構造に注目してみるとまた印象が変わってくるのが非常に面白い。ロンド形式とは異なる旋律を挟みながら、1つの主題を何度も繰り返す形式を指す。つまり、音が今までに関係を持った男性とので軽快かつ刹那的な時間の間には、家福という「主題」はきちんと存在していたという証--もしくは家福との夫婦としての穏やかな時間が異なる旋律であり、「主題」は彼女の中にある性体験から紡ぐ物語の世界(音は異性との体の繋がりから彼女なりの「ひらめき」を得て創作を生み出す)だったのかもしれないことを、音楽形式によって示唆しているとも捉えられるのである。

家福とみさきのドライブの行く末を通して我々が観る世界は、サーブ900の走行音を含む膨大なサンプルを始め、ある意味では緻密すぎる計算がなされた潮の満ち引きの上を歩かされているとも言える。

寄せては返す波打ち際で流れる『ドライブ・マイ・カー』の映画音楽は、人が耐え難い悲しみを乗り越える癒しの過程に、仄かな温もりを携えてただ静かに寄り添ってくれるだろう。

すなくじら