【後編】ビョーク(Björk)が『Vespertine』で志向した、セルマを癒す安寧の薄暮【20周年記念】

【後編】ビョーク(Björk)が『Vespertine』で志向した、セルマを癒す安寧の薄暮【20周年記念】

ラース・フォン・トリアー監督の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が鮮烈な衝撃を残してから21年──いよいよ12月から、本作の4Kデジタルリマスター版が順次公開される。これを機に、musitでは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と、翌年リリースされ本作と深い関わりのあるビョーク(Björk)のアルバム『Vespertine(ヴェスパタイン)』について、前編/後編に分けてお送りしている。

後編となる本稿では、今年でリリースからちょうど20周年を迎えたビョークのアルバム『Vespertine』について迫っていく。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で文字通り壮絶な役柄を「体験」したビョークは、いかにして音楽と向き合い、何を創ろうとしたのだろうか。

内省へと滑り込んでいく薄暮

2001年にリリースされた4thアルバム『Vespertine(ヴェスパタイン)』は、ビョーク自身がそれまでのアルバムで一番「内省した」と語る作品だった。時に激しさを携えた前作『Homogenic(ホモジェニック)』とは、その点で対照的といえる。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の反動として

「vespertine」という、我々にとってあまり馴染みのない響きを持つ言葉は、「夕暮れ」に関する様々な意味を持つ。その中には「昼行性」や「夜行性」に対して、日没が迫り薄暗くなる時間帯から活動を始める「薄暮性」の動植物に対する意味も含んでいる。

『Vespertine』アルバム・ジャケット

ビョークは元々、本作のタイトルを『Domestika(ドメスティカ/家庭の中、の意)』にするつもりだったらしい。これは言うまでもなく『ダンサー・イン・ザ・ダーク』への反動であり、ビョークがある種の「家庭的な安らぎ」を求めていたことにほかならないだろう。アルバム制作中の彼女は当時、こう語っていた。

“本当に暗くて、とても苛酷で、非情な映画だったわ。だからいま作っているものは、まったく正反対の傾向に向かっていると思うの。優しくて穏やかで楽しくて面白いものじゃないかしら ”
──『ビョークの世界』p116より引用

その後、ビョークはアルバムのタイトルを『Vespertine』へと変えた。故郷・アイスランドでヴォーカルのレコーディングを行っていた彼女は、夕暮れの海辺によく一人で訪れていたという。そうした穏やかな時間が『ダンサー・イン・ザ・ダーク』後のビョークを内省へと導いたことは想像に難くない。

かつて、Base Ball Bearの「夕方ジェネレーション」で、小出祐介は“人類の進化だって夕方あたりだっていう。”と歌った。さらりと真理を突いたこのフレーズが示すように、多かれ少なかれ、人は誰しも夕陽に包まれることでセンチメントが逆流していく。その薄暮における自己内省がしなやかなサウンド・デザインへと結び付き、安らぎの地として機能したのが『Vespertine』なのだ。

私生活とスキャンダル、そして『Homogenic』を経た境地として

もう少し時間を遡ってみる。間接的な繋がりかもしれないが、3rdアルバム『Homogenic』(1997)に至るまでの流れを振り返ると、より『Vespertine』への理解が深まるはずだ。

ビョークは2ndアルバム『Post』(1995)のツアー時、過度の熱愛報道に晒され疲弊していた。しまいにはインタビュアーに過剰反応し、暴力を振るってしまう。これを反省した彼女は束の間の休息を得たが、その後ビョークの熱狂的なファンであるリカルド・ロペスが熱愛を嫌悪し、ビョーク宛に硫酸入り爆弾の小包を投函(なおこれは未遂に終わる)、自らの頭を拳銃で撃ち抜くというショッキングな事件が発生──。そんな、彼女の平穏を立て続けに乱すスキャンダラスな事象への感情が、『Homogenic』というアルバムに結実した。結局は別れてしまった恋人への怒りを噴出させた「5 Years」に顕著なように、本作には時として激しさが滲む。

しかし、「同型遺伝子」という意味を持つアルバム・タイトルが暗示するように、あくまで自身がアイスランド人であることを再確認し、アイデンティティの根本に立ち返るためのアルバムだったことをビョークも明言している(もちろん、そうした作品へと向かったのは当時のビョークにとって自然な流れだったはずだ)。そのことは、ビート、ストリングス、ヴォーカル、そしてエレクトロニックな装飾というシンプルでミニマルなアレンジが物語っている。

──と、ここで気付く。『Homogenic』のコンセプトや構造は、どこか『Vespertine』にも通ずるものがある。特に「All Neon Like」の繊細なテクスチャーや“The cocoon surrounds you”といった歌詞のフレーズは、『Vespertine』収録の「Cocoon」の予兆としても聴くことができるだろう。

『Vespertine』は、それまで以上に洗練されたサウンドを聴かせる。そして、開花した創造性によって「原点への立ち返り」よりもさらに深い境地へ到達した。その布石として、やはり『Homogenic』は避けて通れない。

セルマと、多くの「セルマたち」の救済

『Vespertine(ヴェスパタイン)』を『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と決して切り離せない最大の理由は、ビョーク自身が映画の主人公であるセルマ・イェスコヴァの魂と分かち難いほど強く結び付いたところにある。

セルマを肯定し、救うということ

映画の中で、セルマは耐え難い現実を音楽(ミュージカル)へと昇華する。その様は単に音楽の中に生きる者ではなく、「セルマ自身が音楽」なのだと宣言するかのような強かさがある。しかし、セルマは同時に内向的な人物でもあった。ビョークは、セルマを演じることを決めた理由をこう述べている。

“世の中には、こういうとっても内気なひとたちがいるのよ。で、わたしはそういうひとたちの代表みたいに、ここで応援の歌を歌おうと思ったの ”
──『ヴェスパタイン』日本盤ライナーノーツより引用

そんなセルマの視点で生きたビョーク自身も、かつては「内気」だったことを思い出す。やがて、内へ向かうように音楽へと没入していき、『Vespertine』を生み出した。本作は内省のアルバムであり、ビョーク自身の安らげる場所として機能していることは前述の通りである。

しかし、内気なセルマの視点を通じて生きることで心を痛めたビョークは、おそらくセルマの一番の理解者でもあったはずだ。そんなビョークが紡ぐ繊細な調べは、セルマの傷を癒すものとしても響く。『Vespertine』のオープナー・トラック「Hidden Place」でビョークは“Now, I have been slightly shy / But I can smile a pinch of hope”(そうね、わたしはちょっとシャイだったけれど / ほんの僅かだけ希望を感じているの)と歌い上げるが、どこかセルマに捧げられた一節のようにも感じられる。

ビョークは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を「非情な映画」と形容したが、それは決してセルマの存在を否定するものではないはずだ。むしろ彼女を肯定し、ビョークなりにセルマを別の角度から救おうとした──『Vespertine』を聴くと、そう思わずにはいられない。

誰しもがセルマ・イェスコヴァ?

『Vespertine』が最も優れているのは、アルバムが常に先駆的であり続けながら、どこまでも普遍的なメッセージを内包している点ではないだろうか。

自己内省とセルマの救済。それは、ある意味でビョークが貫いた「我」だ。しかし、このアルバムは決してそれをリスナーに押し付けることはない。あくまで、「(セルマのように)全ての内向的な人々を肯定する」という役割を果たそうとするのだ。

それはやはり、内省的なメッセージを含んだ歌詞以前に、アルバム全体を包み込む極めて治癒効果の高いサウンドによるものも大きいだろう。『Vespertine』はプログラミングを駆使したエレクトロニカの律動に、ハープ、チェレスタ、クラヴィコード、オルゴールといった楽器、さらには児童合唱団をも巧みに組み合わせることで、前年のレディオヘッド『Kid A』(2000)を別軸で追求したような、今なお先駆的なサウンドが詰まっている。そして、「Hidden Place」というタイトルが端的に示すように「秘められた場所」──つまり誰にも邪魔されない、まさしく誰にとっても「安寧の薄暮」たる空間を見事に創り出してみせた。

それに、やや強引かもしれないが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の反動として『Vespertine』が存在するという二者間における対立構造は、未曾有のパンデミックに見舞われたここ1、2年の我々の状況と重なる部分があるようにも感じる。苦境に立たされながらも懸命に生きようとするセルマに降りかかる、圧倒的な理不尽。思わず目を背けたくなる彼女の状況は、コロナ禍において様々に苦しめられてきた市井の人々とも重なる。誰もが塞ぎ込み、癒しを求めようとする。その過程で、理不尽な現実に彷徨う人々が安らぎを求めて内省へと向かうのはごく自然なことだ。

『Vespertine』は、そんな誰しもがセルマとなった時代において、人々の確かな居場所として存在する。ビョークが自身のために志向した内省が、リリースから20年が経過した今もこうして普遍的な価値を持っているとすれば、それは奇跡と呼んでも差し支えないのかもしれない。

M/M(Paris)、石岡瑛子、アレキサンダー・マックイーン──クリエイターたちが紡ぐ鮮烈なイメージ

ビョークを語る上で、映像作品やアートワークなどの視覚的要素に触れないことは不可能である。ビョークの革新性は、そのサウンドと共にヴィジュアル面でも注目されており、それは『Vespertine(ヴェスパタイン)』の頃も例外ではなかった。最後にアルバムを形作る重要なファクターとして、収録曲の中でもミュージック・ビデオが存在する3曲について触れておく。

M-1.「Hidden Place」

本作のオープナー・トラック。先述の通りアルバムのコンセプトを端的に体現するナンバーだ。映像では、色鮮やかなオイル(のようなもの)がビョークの目から口へ、そして鼻を通り抜け、また目に戻っていく──といった循環がひたすら繰り返される(人によってはビリー・アイリッシュの「When the Party’s Over」のミュージック・ビデオを想起するかもしれない)。手掛けたのは、Inez van LamsweerdeとVinoodh Matadinのカメラマン・デュオ、そしてフランスのデザイン・ユニットであるM/M(Paris)のチームだ。この循環は、『Vespertine』における内省のメタファーのようにも思える。

彼らは『Vespertine』のアルバム・ジャケットも手掛けた。モノクロのビョークが身を包んでいるのは、同年のアカデミー賞の授賞式でも話題となった白鳥のドレスである。写真はInez van LamsweerdeとVinoodh Matadinが手掛け、その上をM/M(Paris)による繊細な線画が覆う。ブックレット全体にもストレンジかつ蠱惑的なイラストが施され、ビョークの神秘的な音世界を視覚的に増幅させている。

M-2.「Cocoon」

アートディレクター/デザイナーとして国際的に活躍し、2012年に惜しくも亡くなった石岡瑛子がミュージック・ビデオを手掛けた。彼女の著名な功績は、マイルス・デイヴィス『TUTU』のジャケット・デザインや、映画『落下の王国』の衣装などにも見ることができる。

映像では、ビョークが一糸纏わぬ姿で登場する。やがて、自身の乳首から生えてくるハリガネムシのような赤いチューブ状のものが全身に巻きつき、最後には文字通り「cocoon(=さなぎ)」となってしまう。モノクロの映像の中でチューブのみが鮮烈に発色しており、得も言われぬ独特の生々しさがある(安部公房『赤い繭』との関連を指摘する声も)。

『Cocoon』シングル・ジャケット

是非、一度鑑賞することをおすすめしたいが、残念ながら公式の映像はアップロードされていない(※2021年12月現在)。

M-5.「Pagan Poetry」

「Cocoon」以上に鮮烈な印象を残すのが「Pagan Poetry」のミュージック・ビデオだ。再生してすぐに映像の全貌を掴むことはできない。しかし、目を凝らすのはいささか危険だ。白くエフェクトのかかった視界が少し明けたかと思えば、突然、素肌に針を刺して紐を通す様子が映し出される。身を捩りながら歌うビョークの表情は苦悶と恍惚を行き来する──。

単に「着る」のではなく、身体を拡張させ、もしくは身体と同一化させるかのような衣装を手掛けたのは、イギリスを代表するファッション・デザイナー、アレキサンダー・マックイーン。ビョークが内省の象徴、あるいは内向的な人々のメタファーとして用いた「pagan(=異教)」という儀式的な言葉を、視覚的に表現することに成功している。ショッキングながらも語り継がれるべき映像作品だが、発表当時、アメリカのMTVでは放送禁止だったという。

──そして、ここに挙げた3曲の映像は、(あえて言葉を選ばずに言えば)どれもビョーク自身の身体を「犠牲」にしている。毒々しいオイルを顔の穴から出入りさせ、赤いチューブで全身を巻き付け、ボディピアスで血を滲ませる。ここに、自らを捧げ人々の平穏を祈るビョークの姿を見出してしまうのは、果たして筆者だけだろうか。

この時代に『Vespertine』を聴く、ということ

ある側面では娯楽として機能する音楽作品を、この未曾有のパンデミックと安易に結びつけてしまう行為は、もしかすると良しとしない声も存在するかもしれない。しかし、アートやエンターテインメントが内包する普遍性は、時に社会的な不安や危機に寄り添い、安寧をもたらすものであり、そのことを実感しているリスナーも少なくないはずだ。そして、これこそが芸術に秘められた醍醐味ではないだろうか。

ラース・フォン・トリアーが絶望を描き切ることでむしろ希望を表出させたように、あるいはビョークが自己内省の果てに他者を肯定したように。我々が享受している芸術作品の中には、時代を生き抜くヒントが潜んでいるに違いない。

参考文献

・『ヴェスパタイン』日本盤ライナーノーツ 解説:宮嵜広司(ユニバーサルミュージック)
・『ビョークの世界』イアン・ギディンズ著 中山啓子訳(河出書房新社)
・『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー著 石田泰子監修 杉山緑訳(アーティストハウス/角川書店)

對馬拓