『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』で若き天才作曲家が遺した、希望と救済のミュージカルの礎

『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』で若き天才作曲家が遺した、希望と救済のミュージカルの礎

ブロードウェイのトニー賞でミュージカル作品賞など10部門を制覇し、もはや社会現象となった名作ミュージカル『RENT』(1996)。ロックとバラードの心打つアンセムの数々と、セクシャリティやエイズなどセンシティブな社会問題を基調とした物語は世界中の人々に衝撃を与えた。その作者であるジョナサン・ラーソンが30歳へのカウントダウンの中で自身の人生に向き合っていく自伝的ミュージカルこそが、Netflixで現在配信中の映画『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』(2016)だ。「30歳を迎える前に何かを成し遂げなければ」という20代の誰もが1度は抱いたことのある焦りを時計の心音に重ね、ラーソンがミュージカル界で成功するまでの足取りをエネルギッシュなナンバーとともに描き出している。

本記事では『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』をより楽しむためのヒントを、映画音楽の視点と本作に関わりの深い他作品を交えながら解説していく。

『RENT』成功を前にして途絶えた魂のカウントダウン

軽快なピアノのイントロから始まる「30/90」を皮切りに、ラーソンは自身の才能に対する不安を抱えながらもミュージカルのことだけを第一に考え、努力を重ねる。そんな彼の「ミュージカル界で成功したい」という想いは、一世を風靡した『RENT』によってようやく実を結ぶものの、なんと彼はその公開初日前夜に帰らぬ人となってしまう。

『RENT』ポスター・ヴィジュアル

本編は、ラーソンが『RENT』を生み出す前、結局は世に放たれることのなかった『スーパービア(Superbia)』というミュージカルをラーソンが作り上げる場面に時間軸が設定されている。しかし、ジョージ・オーウェルの小説『1984』を下敷きにしたと言われる『スーパービア』は現実離れした壮大なスケール観が印象的なSF作品で、貧困街のリアリティ溢れる苦しみを描いた『RENT』とは明確に方向性の違いが窺えるだろう。『RENT』の舞台となる1991年、町の人々は古いアパートの取り壊しと、男性を中心に蔓延するエイズに苦しんでいた。本作の演出家、マイケル・グライフを始め、作品中の登場人物の多くがHIVウイルスに侵されていることからも、当時のラーソンを取り巻く環境が作品の中に投影されていることが読み取れる。

『RENT』(2005)

このような「売れない芸術家」の目まぐるしく働かなければ生きていけない貧乏暮らしの日々を描き出したナンバーが「Sunday」だ。

‘‘Brunch
Sunday
In the blue, silver chromium diner
On the green, purple, yellow, red stools
Sit the fools
Who should eat at home
Instead, they pay on’’

ラーソンはソーホーにあるムーンダンス・ダイナーで働き続け、イースト・ヴィレッジの安アパートで寒さと戦いながら作曲活動にあたっていた。それこそ、彼自身が『RENT』のキャラクターと同じく実際の貧困暮らしの中で家賃に追われていた訳である。ちなみにこの曲がミュージカル作品『Sunday in the Park with George』のパロディであることからも、ミュージカル界の重鎮であり、ラーソンに影響を与えた作曲者であるソンドハイムへの敬意が込められていることが分かるだろう。ちなみにソンドハイムといえば、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(2007)や『イントゥ・ザ・ウッズ』(2014)の曲を手掛けたことでも有名だが、実は『ウエスト・サイド物語』(1961)の作詞も担当している。2022年現在、『ウエスト・サイド物語』が60年ぶりにリメイクされていることにも奇妙な縁を感じざるを得ない。

『ウエスト・サイド物語』(1961)

本作の主演は『わたしを離さないで』(2010)や『ハクソー・リッジ』(2016)など数々の有名タイトルで名を馳せてきたアンドリュー・ガーフィールド。芽が出る前の、自分のクリエイティビティの信憑性と葛藤し続けながらも、わずかな希望の篝火を頼りに前に進み続ける、若さ溢れる芸術家の強さを情感豊かな歌唱力が支えている。

監督・リン=マニュエル・ミランダがラーソンから託された希望

本作の監督はリン=マニュエル・ミランダ。実は、リンは自らのルーツが17歳の誕生日に観た『RENT』にあることを明かしており、特に代表曲「Seasons of Love」を歌うシーンは約20年に公開された、後の0ドル札の肖像になっているアレクサンダー・ハミルトンの生涯をヒップホップ、ジャズ、R&Bと共に描いた『ハミルトン』(2016)のオープニング・ナンバーにも色濃く影響を与えている。『ハミルトン』では自ら脚本を書き上げたというだけでなく、作詞/作曲/主演まで務めるという多彩な活躍を見せたリンだが、映画監督としての大きな功績を語るにあたって避けては通れないのは、彼の出世作とも呼ばれた『イン・ザ・ハイツ』(2021)だろう。

‘‘「当時住んでいたワシントンハイツに焦点を当て、マスメディアには取り上げられない、この移民の街の素晴らしさを伝えたかった」’’(引用:【インタビュー映像】『イン・ザ・ハイツ』リン=マニュエル・ミランダ「時代が作品に追いついた」 ─ 2008年初演作、映画版でのアップデートは

ニューヨークはワシントンハイツを舞台に、エネルギッシュなラテン系の若者たちが夢を追う姿をミュージカルとして描いた作品が『イン・ザ・ハイツ』であるが、実は本作は映画化が実現するまでに15年近くもの時間が流れている。ラーソンが『スーパービア』に費やした歳月を超える長さをリンは既に『イン・ザ・ハイツ』で身をもって体験していたのである。また都市開発の影響で地元の低所得層が暮らしにくくなってしまうジェントリフィケーションの問題は、まさに『RENT』を彷彿させるテーマでもある。

『イン・ザ・ハイツ』(2021)

かつての自分を取り巻く環境を作品に昇華したラーソン、そしてそのラーソンに影響を受けたリン。2人の若き天才は、それぞれの故郷に巣食う社会的な問題の表現技法にミュージカルを選んだ。もちろん、ラテン音楽特有の軽快なリズムとHIPHOPのエモーショナルなサウンドが印象的な『イン・ザ・ハイツ』とブロードウェイ・ミュージカル調の『tick, tick… BOOM!:チック、チック…ブーン!』は共通項だけでは語れない部分もあるが、夢を追う若者が自分の存在を問い続け、その答えを得るまでの過程と癒しの音楽を描く映画作品という確固たる軸は見えてきたのではないか。

ラーソン本人は自らの成功を見ることなくこの世を去ってしまったが、ラーソンが手にしていたミュージカルへのパッションと彼の残した作品の数々はミュージカル界で確実に消えない爪痕を残した。

彼の人生の時計の針がチクタクと忙しなく回り続け、カウントダウンを終えた先に待つのが、彼に憧れ続けた新たな芸術家たちが作り上げるミュージカルの新時代であることを、果たしてラーソンは予期していたのだろうか。そしてそれは、新たな若き才能が抱く時計のカウントダウンの始まりをも意味する。しかし、悲観することはない。現代の若き天才たちの作り出すミュージカル・ナンバーを聴けば、ラーソンが託した希望と救いの音楽は確かにそこにあり、これからも形を変えて我々の側に在り続けることは明確なのだから。

すなくじら