身につまされる恋愛映画『花束みたいな恋をした』(2021)──恋愛は「贅沢品」なのか?

身につまされる恋愛映画『花束みたいな恋をした』(2021)──恋愛は「贅沢品」なのか?

「うわぁ……」

映画『花束みたいな恋をした』をスクリーンで観た私の心の声だ。

悪かったというわけではない。むしろ良かった。最高だった。今をときめく若手俳優2人が敏腕なストーリーテラーである脚本家・坂元裕二とタッグを組んだ作品とあって、見応えのある作品に仕上がっていた。

菅田将暉は『生きてるだけで、愛。』(2018)で見せた、緩やかに摩耗していく人間のやるせなさを見事に表現していたし、有村架純も生きていくうえで発生する様々なままならなさの重圧に押し潰されそうになりながら、健気に恋人を想う姿を自然体で演じていた。

「偶然の出会いからはじまった恋の5年間の行方を描いたラブストーリー」。そう、これは恋愛映画なのだ。恋愛映画なのに、こんなに身につまされることがあるだろうかと思った。身につまされる、とは文字通りの意味だ。歳相応に恋をして、つつがない生活をしている2人にじわじわとにじり寄ってくる「現実」。痛いほどの共感が私を襲い、映画が終わる頃には傷だらけになっていた。

菅田演じる山音麦は駆け出しのイラストレーターだ。八谷絹(有村架純)と終電を逃した駅で出会い、意気投合したのち恋人同士としての同棲を始める。麦はかねてからの夢であったイラストの仕事を請け負い、生活費を賄おうとするのだが、持ち込まれる仕事の単価は驚くほど安く、しまいには担当者から「君の代わりはほかにもいくらだっているから」と言われてしまう。

本作を観て、まず心を痛めたのがそこだ。私も麦と同じ、フリーランスのライターとして今もこうして文章を書き、生業としているわけだが、一部の売れっ子ライターを例外として、この業界は決して割の良い仕事ばかりとは言えないうえに、フリーランスとなると仕事がなくなった場合のリスクが高い。会社勤めの社会人とは違い、安定して月々の給料が振り込まれるといったことがないため、自分の稼ぎは請け負う案件と先方の発注次第になってしまうのだ。

切り詰めることを余儀なくされる生活。夢だった仕事のはずなのに、直面する現実。そういった日々は、次第に麦の心を摩耗させていく。しばらくして麦はイラストの仕事を辞め、就職活動を経て社会人になり、忙殺される毎日が続く。余裕のなさから大好きだったアートや娯楽も昔のように楽しめなくなり、サブカルチャーを通して親しくなり、恋仲になった絹との関係にも次第に溝ができていく。

「忙しくて何もできない。パズドラしかやれることがない」

私が大好きな、最もリアリティを感じる麦の台詞だ。頭を使わずともできるゲームをやるくらいしか、身体と心のキャパシティが空けられない。これは私も最近感じることで、日中忙しなく仕事や日常生活をやりくりした後、夜に映画でも観るか、となってもなかなか身体を縦にすることができない。結局、何時間もTwitterのタイムラインを眺めてだらだらしてしまい、疲れ果ててそのまま眠る…という繰り返しの毎日を送っている。

大人というのは、とにかくやることが沢山ある。誰がそう決めたのかは知らないが、優先順位をつけるならまず仕事(生きていくためにはお金が必要だから)、家事を始めとした日常生活(生きていくことそのものだから)、そしてその他諸々のあとにようやく娯楽が回ってくる。誰が最初にそう決めたのだろう。おかげさまで大人たちは娯楽をするための時間、ないし娯楽をするための体力がなくなり、麦のように社会の歯車となって生き、いつしか好奇心や探求心が薄れていってしまう。

私がこの映画を観て思ったのは、「やはり恋愛は贅沢品なのかもしれない」ということだ。当たり前のように出会い、当たり前のように恋をして、その先も何の苦難もなく添い遂げるということは不可能に近い。先に述べたように、大人は恋愛をすることよりも優先しなくてはいけないことがある。好きな本や音楽について語らい、同じベッドで寝て朝を迎え、休日は美術館に行く……などということは、そもそも自分のためにすらも使う時間が限られている大人にとって、本当に「贅沢」なことなのではないだろうかと思う。

だからこそ麦と絹が付き合い始めた当初の、束の間の幸福を描いたシーンがスクリーンの中で燦然と輝くのだ。もうこの光景しか信じられない、信じたくない、というように、これでもかと言うほど「2人でいることの幸せ」を描いている。私が「うわぁ……。」と思った理由、それはあまりにも光に満ちていた時とそうでなくなった時のコントラストが強すぎたことと、恋という名の花束が枯れていくスピードが早すぎて、感嘆に似た空虚感を抱いてしまった、というのが大きい。きっとこの空虚感は私だけならず、多くの人の傍にあるものだと思うし、だからこそ、この映画が共感性のラブストーリーとして現代に受け入れられたのだとも感じる。

想いの込もったものがオブジェになった時、物理的質量を持ってそこに横たわるだけになった時、私は前を向いて歩けるだろうか。過去を羨ましがらず、明日の朝に降る光を待っていられるだろうか。

ちくっとつままれたような気がする二の腕のあたりをさすりながら、花が枯れていく速度のことを思い、今日も変わらずパソコンを抱えカフェに向かうのだった。

安藤エヌ