私達はしばしば迷う。時々どうしようもなく弱くなる。心を揺さぶるような大きな感情に戸惑うのに、上手く言葉が見つからない。言葉という形にならないから、余計不安になる。
そんな時、そっと開くことのできる辞書のようなものがあればいいのに、と思う。そっと自分の心に問いかけるように開くそれは、1つの意味だけに留まる単純な言葉は載っていない。人の感情に単純、という言葉は似合わないからだ。
それでも私達は「自分の抱えている感情」を知るために、それが載っている頁を探す。どうしても言葉にしたい。どんな言葉なのか知りたい。知れば感情と友達になれる気がするから。感情と、一緒に生きていける気がするから。
ここに1冊の辞書がある。
名前の分からない感情の正体が知りたい時に開く辞書だ。革の表紙は少し色あせていて、沢山の人が読み、使い込んだ跡がある。そこにはただ説明じみた文章ではなく、言葉ひとつひとつに暖かなランプの光のようなぬくもりがある。頁をめくりながら、天気の良い日に落ち着く場所で小説を読んでいる時の気持ちと、今の気持ちが似ていることに気づく。優しく手を取りながら導いてくれるその辞書の作者は、BUMP OF CHICKENとある。
私は、その人生に似た辞書を静かに、大切に抱えながら開く。
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───
今ある幸せ、というけれど、目には見えない。どうやって大切にしたらいいのか分からない。目に見えないものを、どうやってこの手に抱えて、守っていけばいいのだろうか。
大切なものだから、変わらないままでいてほしい。変化は私を不安にさせる。いつしか消えてしまうかもしれない、お別れも言えないまま、離れ離れになってしまうかもしれない、という寂しさが、時折、私の心を締め付ける。
どんなに晴れて風が心地いい日でも、その淋しさと不安は私のそばにやって来る。むしろ、幸せの形を実感すればするほど、反比例して影は積もっていく。
特に、眠る前の明かりを消した夜の室内では、そういう「幸せの裏返しにある影」を1日のうちでいちばん近くに感じる。
不安にさいなまれ、私は何かを唱えようとする。大丈夫、に似たおまじない──大丈夫、より信じられる言葉を。
大切なものが不変ではないと分かった時の私に、私はどんな言葉をかけてあげられるだろうか。
手に持っているよく使い古された辞書の、ある頁を開く。
<iframe loading="lazy" title="BUMP OF CHICKEN『魔法の料理 〜君から君へ〜』" width="500" height="375" src="https://www.youtube.com/embed/MVVQynaCOYg?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen></iframe>
<blockquote>「これから失くす宝物が　くれたものが今　宝物」 
──「魔法の料理　～君から君へ～」</blockquote>
心の中の宝物箱を開く。そこには子どもの頃にもらった小さなおもちゃから髪飾り、ぬいぐるみ、そして大切な人達がしまってある。
みんな、変わっていく。いつかこの宝箱が空っぽになる日が来る。
だけどその宝物たちが私にくれたものが、代わりに宝箱を埋めていく。
大切なものは変わっていかない。ずっと私のそばを離れない。
宝物たちは私をずっとこれからも見守ってくれる。おまじないをかけたあとの子供を見るような瞳で、大人になったあとの私にも優しい眼差しを注いでくれている。
大人になってもずっと子供のままの私を、見つめてくれている。
チーズケーキが食べたくなった。銀色のフォークを使って、ひとくちずつ。
私は少しだけ、夜が怖くなくなっていた。頁に折り目をつける。そして、そっと閉じる。
宝物箱を大きくしよう、空になってしまったクッキー缶を使って。そう、真夜中に思った。
───
人間って、不思議だ。お金という付加価値とともに生きて、感情という不確実なものを抱いている。家族というつながりを持って愛を知り、風景というものを見て突然涙を流したりする。
そうやって生きることは、時々とても疲れる。現に私は、人間でいることに疲れている。もし、お金というものが存在しなければ。もし、自分が感情を持つ生き物でなければ、どんなに楽だったことだろう。
人間は、愛を信じながら真逆のことだって出来てしまう。嘘をつくことだって平気でできる。人が集まれば思考の塊ができる。集まらない人間はその塊に襲われる。聡くて悲しい動物だ。
人はみな、ひとりでは生きていけない。誰が最初にそんな生き方をしてみせたのだろうか。
1人になりたい。なのに、1人にはなれない。
誰かから愛され、愛さないと生きていけない。
働かないと、お金がもらえない。お金がないと、生きるすべがない。
人が生まれた時からレールのように続いているその約束に、歯車に、乗りながら今日を生きている。
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<blockquote>「それが全て　気が狂う程　まともな日常」 
──「ギルド」</blockquote>
何も起こらない、昨日を巻き戻したような日常に安心しきっている。そうやって生きることを受け入れている。
なのになぜこの頁を読むと、大声をあげて泣きじゃくりたくなるんだろう。私の感情が痛そうに腫れて、どくどくと脈を打っている。
そうか、これが私を人間たらしめているものなんだ。
感情を手放す勇気なんてどこにもない。痛みと一緒に生きていく。
私は今日も、どうしようもなく人間だ。
───
私のこの命は、偶然、選び取られた命だと思う。億千万の確率の中から、大きな手で掬いあげられた存在。
だからといって偉い、というわけではない。ごく平凡な人生だ。それなのに時折、ここで生きていることがとてつもなく尊いことのように感じる。わけも分からず泣いて笑って怒って悲しみたくなる。奇跡、というものに震えながら感嘆するのは柄じゃないのだけれど、それでも自分がこうして生きていることに対して、幸せってこういうことなんだろうなと感じられた時には、心の奥で独りでに感動する。
自分という存在の弱さを痛感する時がある。ふがいない時、自信がない時。自分は本当に誰かから必要とされているのだろうか、と、魅力を放つ人の影でうずくまってしまいたくなる。そう、雑草だ。例えていうのならば、私は河川敷に咲いている小さな野の花だ。そんな風に思っては、自分をひどく小さく些細なものに感じていた。
途方もないほど広い世界でちっぽけに生きる私。その強さを確かめたい。奇跡の積み重ねでここにいるんだ、ということを、誰かに優しく教えてもらいたい。そんな時、栞を挟んでいるこの頁を開く。
<iframe loading="lazy" title="BUMP OF CHICKEN「花の名」" width="500" height="281" src="https://www.youtube.com/embed/GOPcjlY-gwE?feature=oembed" frameborder="0" allow="accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share" allowfullscreen></iframe>
<blockquote>「あなたが花なら　沢山のそれらと　変わりないのかも知れない 
そこからひとつを　選んだ　僕だけに　あなただけに 
いつか　涙や笑顔を　忘れた時だけ　思い出して下さい 
迷わずひとつを　選んだ　あなただけに　歌える唄がある」 
──「花の名」</blockquote>
私の手は、確かに何かを掴んでいる。これは奇跡だ。
そのおかげで、笑ったり泣いたり怒ったり悲しんだりできている。人間として、毎日を生きていられている。
時々煩わしくなるし、複雑な感情ばかりを内に抱えこんでしまう人間というものに生まれてきたことに疲れたりもするけれど、それでもやっぱり、生まれ変われるなら今度も私に生まれてきたい。
そう思えるのは、誰かが私を「選んでくれた」からだ。
ここにある風の匂いを嗅ぐ。ここにいる私の、つま先を見つめる。
私はここにいる。ずっと私のそばにあるこの辞書と一緒に。
 
優しい曲たちと一緒に、これからも言葉にならない日々を生きていく。
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ポストパンクを主に聴いています。毎年苗場で音楽と共に焼死。クラフトビール好きが興じてブルワリー取材を行うこともしばしば。なんでもご用命ください。

星野

【エッセイ】BUMP OF CHICKENという名の、感情の辞書──ふいに泣きたくなったとき、私はその頁をめくる

日芸卒フリーライター。「生きづらさと愛を書く」をモットーに音楽、映画、マンガなどの分野で執筆活動中。主な掲載先はrockin’on、リアルサウンドなど。

安藤エヌ

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