クリープハイプ・尾崎世界観『母影』──怒りと不変の愛が生み出す色褪せた親子の絆

クリープハイプ・尾崎世界観『母影』──怒りと不変の愛が生み出す色褪せた親子の絆

実家に住む母とは、不仲ゆえ何年も会話らしい会話をしていない。それでも思い出すことは度々ある。見るほどに小さくなる背中と、踏切で買い物袋を両手に持った、長く伸びるその影を。

『母影』(おもかげ)は昨年1月、新潮社より発刊された第164回芥川賞候補作。著者は2010年代のロックフェスにおけるレギュラー・バンドを列挙するうえでは外せない、クリープハイプのフロントマン・尾崎世界観(本名:尾崎祐介)。

これまで『祐介』『苦汁100%』『苦汁200%』『泣きたくなるほど嬉しい日々に』と自身のパーソナリティを描いた自伝的小説(及びエッセイ)を発表してきた尾崎だったが、なぜ彼は『母影』で<母と娘の絆>を描こうとしたのか。同じく親子関係の形を主人公の痛ましいほど壮絶な語り口で書き上げた、2019年の文藝賞受賞作『かか』との相違点、また尾崎が作詞を手掛けるクリープハイプの楽曲を参照しながら、尾崎世界観における「表現者」の像をひもといていきたい。

※なお、本記事では作品のあらすじや伏線についての言及を含むため、気になる方は読了後に再度このページを訪れていただくことをおすすめする。

母と娘を題材にした一人称視点の純文学、『かか』との違い

尾崎世界観は2015年、担当編集者に声を掛けられたことを機に小説の執筆を開始。当時、バンドは数多くのロック・フェスへ出演するほか、東京スカパラダイスオーケストラ、スピッツ、銀杏BOYZのトリビュート・アルバムへ参加するなど勢力的な活動を見せていたが、尾崎の喉の不調と彼らのライブに訪れる客層の移り変わりから、一時は解散を考えていたという。そんな中「気晴らし程度に」と筆を手に取り、2016年に処女作『祐介』を発表。尾崎自身の経験を曝け出した「自伝的小説」を貫くスタイルが高く評価され、その経験が起点となって尾崎はバンドと向き合うようになり、音楽活動も徐々に再び軌道に乗った。

執筆活動の開始以降は『母影』を含め計5作品の創作小説及びエッセイを発表している。またクリープハイプにおいても、昨年12月に6枚目となるフル・アルバム『夜にしがみついて、朝で溶かして』をリリースするなどコンスタントにリスナーへのアプローチを続けている。新型コロナの影響から開催を予定していた10周年記念ツアー(『僕の喜びの8割以上は僕の悲しみの8割以上は僕の苦しみの8割以上はやっぱりクリープハイプで出来てた』)の延期にも見舞われたが、アニメ/映画/バラエティとタイアップ作品も以前より格段に増え、デビュー当時、急速なスピードでスターダムにのし上がったロック・バンドとしての姿は健在だ。

また、尾崎の稀有な表現者としての力量は「役者」という面においてもその才を発揮する。今月19日に公開される映画『ちょっと思い出しただけ』(監督は「鬼」のMVも手掛けた尾崎の盟友・松井大悟)は主題歌に彼らの最新アルバムから「ナイトオンザプラネット」が起用されただけでなく、尾崎自身も映画に出演。ジム・ジャームッシュ映画に時々登場する、トム・ウェイツぶりの演技(試写会時本人談)を見せているそうだ。

『母影』は尾崎の執筆作品において、初となる完全ノンフィクション・純文学である。小学生の主人公「私」目線で繰り広げられる平仮名を多用した独特な文体は、まるで尾崎が「私」に憑依しているのではないかと思うほどに主人公の像を浮き彫りにするが、その技法は2019年に出版され、第56回文藝賞を受賞した宇佐見りん著『かか』を思わせる。ここでまずは、同じ<母と娘>を題材にした両者の異なる点を見ていきたい。

『かか』は主人公が母の影響を受けたという方言と口語の入り混じった、一見してぎこちなさと詰まりのある文体で展開される独特さが目を引くが、その内容は19歳の主人公が母に抱く憎しみと声に出せない痛みを赤裸々に描く独白文として成立している。

一方『母影』における「私」目線の文体が活写するのは、母への憎悪や嫌悪ではなく、翳りのない愛情だ。小学生の「私」が少ない語で母への愛を紡ぎ出そうとするその文体は、同じ<母と娘>を基軸にしながらも『かか』とのペルソナの違いを実感するほか、未だ幼い「私」では踏み入れられない領域(=秘密)があることを明瞭に映し出すペーソスさえも感じさせ、前者とは異なる意味での没入感を読者に付与する。

‘‘私は書けないけど読めた。お母さんの秘密を。行き場のない少女は、カーテン越しに世界に触れる。’’──『母影』文庫本帯より

また『かか』における母像は、成人目前の主人公をなおも縛り上げる憎悪の存在として描かれているのに対し、本作の母像は純粋無垢な愛を幼い娘に注がんとする目眩い親の姿だ。母の仕事が終わったあとは手を繋いで帰路を辿り、「私」の視線の先にあるガチャガチャを見て百円玉をそっと渡し、「私」の授業参観に足を運べないことに対して「ごめんね」と言う。その理想の母親然とした優しさを差し出す描写は、クリープハイプがインディーズ時代に発表した楽曲「ヒッカキキズ」の歌詞をどことなく想起させる。

‘‘こうして並んで歩いたら 兄弟みたいで少し寂しかった初めてあなたと繋いだ手の力は強くなった’’(「ヒッカキキズ」)

‘‘兄弟みたいで少し寂し’’いとは、「あなた」に対して恋慕を抱いているからこその寂寥のことだが、『母影』における母と娘の関係を「ヒッカキキズ」に置き換えると、母に「秘密」があることを知っているからこそ生まれてしまった距離に対する寂しさ、であると解釈できる。
また(これは筆者の深読みに過ぎないかもしれないが)、このほかにも彼らの楽曲とリンクする部分は節々に見られ、例えば序盤で母との約束を交わす際に紡がれる‘‘オニにみつかって連れていかれちゃう’’との一文は8thシングル「鬼」、性的マッサージ店で働く母の姿は、もしも生まれ変われるなら「普通の大人」として生きることを望むピンサロ嬢の姿を歌った「イノチミジカシコイセヨオトメ」を思い起こさせる。

‘‘休みの日には母さんと 可愛いべべ着てお買い物’’(「イノチミジカシコイセヨオトメ」)

尾崎は何も咄嗟に<母と娘の愛>を描こうと試みたわけではなかった、のかもしれない。彼はもう何年も、数多くの作品で不変の愛を描いていたのだ。いい加減に社会の窓を露出しようとしたり、若さゆえの、「ライブ映え」を意識したコール&レスポンスと雰囲気だけで作詞を進めてきたわけではない。また「破花」の発売記念インタビューにおいて、「昔のような曲が作れなくなってしまった」と語っていることを鑑みると、本作はある種、尾崎世界観が「不変の愛」を主軸に築き上げた創作物の集大成、と言えるかもしれない。

尾崎世界観が創作の根底に持つ「怒り」

前項で明かした通り、「私」の母は性的マッサージを提供する店で勤務している。店ではオーナーと思しき老婆や男性客に本番行為を強要される(「性的マッサージ」を謳う店での本番行為は法律上禁止だ)場面には同じ女性として目を瞑りたくもなるが、客から発せられる言葉に‘‘「言っていい?」’’と、「言」の字が当てられている点は、小学生の「私」が意味を受け取り違えていることを暗喩的に含めているほか、尾崎世界観の歌詞に顕著なダブル・ミーニング等の言葉遊びでもあり、その意味では本作が「尾崎世界観らしい」本であると評することができる(そもそも本作のタイトル『母影』が「面」ではなく「母」の字を使っていることについても、「私」と母が強い絆で結ばれていることを強調してこその当て字だろうと思う)。

また、「私」の絶対的な存在として描かれる母は優しく、同時に不器用だ。小学生の「私」が「何も知らない」がゆえに生じる疑念と勘違いは、時に秘密を暴かれないようにとカーテンの内側(本作での「カーテン」は親子の溝を埋めようとしない隔たり、としての意味を持つと解釈している)で息を潜める母親の胸を痛く締め付ける。

尾崎世界観の歌詞と小説、その両方に共通しているのは、彼が常に「怒り」を創作の出発点にしているという点だ。それは時に‘‘余計なお世話だよ バーカ’’とインターネット上に蔓延る批評と不倫相手への侮蔑の念であり、時に本作のような、不透明な社会が副産物として生み出した劣等と苦悩の形としても描かれる。

‘‘「もともと昔から、創作の根源には怒りがあって、今も純度100%であります。それを作品で表現してきて、届くものとそうでないものが分かってもきていました。」’’──引用:https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202101200000791.html

「世界観が良い」と言われたことに不満を持ったことから「尾崎世界観」を自ら名乗り、メジャー・シーンで活躍するも余儀なくベスト・アルバムをレーベルサイドからリリースされ移籍、成長を遂げられない自身の幼さを自虐的に歌った「自分の事ばかりで情けなくなるよ」。音楽人生の内外で尾崎が抱く「怒り」は、その時々によって温度や色調は異なるものの、常に創作物として昇華されてきた。終始メタ的な視点と構造で語られる本作も同様に、社会や人間関係に対する沈静な「怒り」を孕んでいることが、読了後感じ取られる作品であった。

しかしそうした「怒り」の感情を育みつつも、母を愛する小学生の「私」は祈り続ける。母が「こわれたところを直す」ためにマッサージをしているその姿を見、母がどうか壊れてしまわないようにと。尾崎世界観が本作で描いてみせた親子の絆は、優しく複雑に絡み合いながら、社会へ向けた怒りさえも内包して、やがて大きく伸びた1つの影になる。

 

‘‘神様どうか こんな言葉が 世間様にいつか届きますように’’(「しょうもな」)

翳目