Galileo Galilei『PORTAL』10周年──早熟のアルバムが提示した特異なファンタジー性を振り返る

Galileo Galilei『PORTAL』10周年──早熟のアルバムが提示した特異なファンタジー性を振り返る

2012年1月25日。ちょうど10年前、Galileo Galileiの2ndアルバム『PORTAL』がリリースされた。

『PORTAL』はあくまで国産ギター・ロックを鳴らしていた1stアルバム『パレード』から大きく路線変更し、全編を宅録で制作、海外のインディー・ロックと呼応するサウンドを打ち出した作品だった。そうした大胆とも言える変化は以降のGalileo Galileiの方向性を決定付けただけでなく、現在に至るまで日本国内におけるインディー・シーンに数多のフォロワーを生み出している。

まさにテン年代の「金字塔」と呼ぶに相応しい『PORTAL』。本作については既に語り尽くされている部分も多いように感じるが、当時の国内シーンを振り返り、事実上の後継バンドであるBBHFとの関連性について再考することで、また新たな視点が生まれるかもしれない。そんな想いを抱きつつ、10周年という節目を迎えたこのタイミングで、今一度『PORTAL』をひもといていきたい。

前書き/邂逅

札幌駅のHMVには、高校に入学した頃から大学を卒業するまで足繁く通った。特に孤独な浪人時代を過ごしていた2011年は、予備校の帰りに時間を見つけては立ち寄り、寂しさを埋めるようにCDを物色して日々を過ごしていた。

2011年。言うまでもなく震災の年。3月11日は大学の後期試験の前日だったが、結果が不合格だったのは何も列島が地震に見舞われたからではなく、単に勉強不足だったからだ。──とまあ、余談はさておき、2011年〜2012年当時は震災の影響下にある音楽作品が日本国内で多数リリースされていた。サカナクション『DocumentaLy』(2011)、Base Ball Bear『新呼吸』(2011)、ASIAN KUNG-FU GENERATION『ランドマーク』(2012)、七尾旅人『リトルメロディ』(2012)──と枚挙にいとまがないが、そんな空気感とは無縁に思えるアルバムが2012年になってすぐ、ふと現れた。Galileo Galilei(以下GG)の2ndアルバム『PORTAL』である。

『PORTAL』ジャケット

『PORTAL』はセンター試験が終了し、二次試験を控えてピリピリしている頃にリリースされた。浪人生の身で背水の陣だった筆者はHMVへ行く余裕もさすがになく、そもそもGGが新作をリリースしている事実を知ったのは二次試験を終えたあとだ。店頭でそのアルバムを見つけた瞬間、迷うことなくレジへ持っていった。その作品が、自分にとってこれほどまでに愛聴することになるとは──。

早熟のアルバムが提示した先進性

そうして『PORTAL』を手に取ってから、もう10年が経過しようとしている。月並みの表現だが時の流れは恐ろしい。しかしそれ以上に、この10年間、全く飽きもせず1つの作品を聴き続けているという事実に、我ながら驚かされもする。実際、筆者が10年以上聴き続けている作品を思い浮かべてみると、決してその数は多くない。「色褪せない名盤」とはよく言ったものだが、『PORTAL』もまさしく熟聴に耐えうるような、しなやかさを兼ね備えた芯のある強さを持っており、今なお作品に対する評価は揺るがない(むしろ年々上昇している気さえもする)。

では、なぜ『PORTAL』は10年もの間、輝き続けているのか。そこには、まず作品が内包している「先進性」があるのだろう。冒頭でも触れたように、『PORTAL』の先進性については既に様々な場所やタイミングで語られているが、当時の日本国内の音楽シーンに目を向けつつ、本稿でも改めて考えてみる。

路線転向と過小評価

GGのが2012年1月にリリースした2ndアルバム『PORTAL』は、当時メンバーが入れ込んでいたフェニックス(Phoenix)やボンベイ・バイシクル・クラブ(Bombay Bicycle Club)など、海外のインディー・ロックからの影響をダイレクトに反映させ、エレクトロニカなど新しい要素を貪欲に取り入れたアルバムだった。

2010年のデビュー当時のGGと言えば、新しい世代のいわゆる「ロキノン系(もはや死語だろう)」を踏襲したサウンド、あるいは「ポストBUMP OF CHICKEN」的なポジションのバンドとして認識していたリスナーも多かったのではないだろうか。事実、デビュー・ミニアルバム『ハマナスの花』や1stアルバム『パレード』を改めて俯瞰的に聴くと、大きな可能性を秘めながらもその範疇のサウンドとして捉えられる。しかし、彼らは自分たちが本当にやりたいことを突き詰めた結果、海外志向のサウンドを追求した『PORTAL』を作り上げることで、そうしたイメージから脱却してみせた。

──いや、「脱却してみせた」と断言することはできないかもしれない。初期のイメージを持ったままのライトリスナーが彼らのことを「アニメ主題歌を歌うバンド」と認識しているパターンに、筆者は少なからず出会ってきた。そのこと自体は責めるべきではないが、その度に彼らの音楽が正当に評価されていない側面もあるという事実を受け止めなければならなかった。邪推かもしれないが、そうした固定観念が絡み合ったことでバンドも解散に至ってしまったとも考えられないだろうか。

また、2012年は震災から1年が経過し、日本国内では「フェス文化」が徐々に盛り上がりを見せ始めていた時期だった(数年後にはKANA-BOON、KEYTALK、夜の本気ダンス、フレデリックなどに代表される「四つ打ち」が国内ロック・シーンを席巻することとなる)。そういった意味では、GGの音楽は当時のメインストリームとは逆行の一途を辿り始めており、その点で過小評価されたという側面も少なからずあるのかもしれない。加えて、同時代の海外のインディー・ロックと呼吸を合わせたサウンドが、そうした当時の国内シーンにとっては「早すぎた」という点も決して否定できないだろう。

宅録の金字塔/ネット発のアーティストとの同時代性?

『PORTAL』の先進性について語る上で「宅録」の要素も避けては通れない。2012年当時、特に日本のメジャー・シーンにおいて、ロック・バンドが宅録でアルバムをレコーディングを実施することは一般的ではなかったはずだ(サカナクションが山口一郎の自宅でレコーディングしたアルバム『sakanaction』をリリースしたのは翌年のこと)。彼らの地元である北海道に自宅兼プライベート・スタジオを構え、共同生活を送り、外部ミュージシャンを全て排し、アレンジからレコーディング、さらにはミックスまで全て自分たちで完結させたDIY精神──『PORTAL』はベッドルーム・レコーディングの金字塔でもあるのだ。

そして、その舵取りによって彼らは進むべき道を見付けた。結果的にGGは行き詰まり、彼らは「車を降りる」という選択を余儀なくされたが、その精神性はBBHFへと引き継がれており(現在も彼らは自宅兼プライベート・スタジオを活動の拠点としている)、それがGGの再評価へと循環しているとも感じる。

また、直接的な関係性は認められないかもしれないが、2012年はDAOKOと米津玄師がそれぞれインディーズ・デビューを果たしている。徐々に頭角を現していたネット発のアーティストと、その直前にリリースされた『PORTAL』を結びつけるのはやや強引な気もするが、今となっては至極当たり前となった宅録やDAWでの音楽制作がメインストリームに進出してきたという点においては、無関係とも言い切れない不思議な縁のようなものを感じ取ってしまう。

いずれにせよ、1stアルバム『パレード』から約1年という短いスパンで急成長を遂げ、GGはまさに「早熟」のアルバムを世に送り出した。そして、その先進性は今となっても新鮮なものとして響く。もし、彼らが初代グランプリを勝ち取った「閃光ライオット」の審査陣(Base Ball Bear、monobrightら)が、GGが化ける可能性をその時点で見抜いていたとすれば、先見の明に頭が上がらない。

ファンタジーから現実の生活へ

ここまで、どちらかと言えば『PORTAL』のリリース当時の状況について触れてきたが、より作品に踏み込んだ部分として、アルバムが持つ物語性、そしてBBHFとの繋がりを捉え直していきたい。

コンセプト・アルバム/BBHFへの布石として

『PORTAL』を強固な作品たらしめる要因として、「明日へ」「青い栞」などタイアップありきの既発シングルを収録しながら、コンセプト・アルバムとしての側面を失っていない点が挙げられる。

『PORTAL』には、とある見知らぬ街を舞台として、そこに住む人々の物語を描くというコンセプトがあった。曲ごとにじっくり目を向けていくと、川に沿って海へと繋がっていくストーリーが浮かび上がる。『PORTAL』がもたらす映画や小説さながらの読後感ならぬ「聴後感」が、作品の評価を不動のものとする大きな要因であることは自明だ。

また、そうしたコンセプチュアルな側面は、BBHFが2020年にリリースしたアルバム『BBHF1 -南下する青年-』にも引き継がれている。というのも、同作の<北から南へ>というコンセプトは、『PORTAL』の<川から海へ>という物語の流れと重なるのだ。これが意識的なものではないにせよ、後のBBHFの布石となっていたとすれば、その点においても『PORTAL』はGGにとって大きなターニングポイントを迎えた作品だったと言えるだろう。

ぼやけたストーリーテリング

『PORTAL』はコンセプト・アルバムとして、1stアルバム『パレード』からたった1年とは到底思えない次元に達しているが、ファンタジー性が前のめり気味に先行し、ストーリーテリングとして幾分「説明不足」で終わっている印象も否めない。全てを説明した歌詞こそが良いものだ、などと言うつもりは毛頭ない。しかし、敢えて指摘するのであれば、『PORTAL』の物語は具体的な事象を描きながらもリスナーの想像力に委ねられている部分が多く、全体像がぼやけている。詞を手掛けた尾崎雄貴の頭の中にはおそらく正解が存在しているのだが、「老人と海」と「くじらの骨」に登場する“砂浜と線路 ”の正体が何なのか、リスナーには最後まで明かされないのだ。

後にリリースされたGGの作品群を見るに、それは技術不足だった、ということに尽きるのかもしれない。尾崎雄貴の映画のようなストーリーテリングは作品を重ねるごとに洗練されていき、GGのラスト・アルバム『Sea and The Darkness』で一つの頂点に達している(BBHFとしてのキャリアでは、より実生活に即した詞を綴っている印象だ)。

もちろん、全体を覆うどこかアブストラクトな雰囲気と(早熟ゆえの)未完成感こそ、我々が『PORTAL』に強く惹き付けられる重要で特異なファクターとなっている。筆者個人としても、そうした部分を含めてこの作品を愛しているということを明記しておきたい。

ファンタジーを補完するリアル

『PORTAL』が『BBHF1』の布石となり得ることは先述の通りだが、両者を決定的に分かつのは、ファンタジーとリアルの境界線だ。少年が愛を知るまでの小さな冒険を描いた短編小説のような「老人と海」や、映画的な美しい映像がありありと目に浮かぶドリームポップ・ナンバー「星を落とす」など、『PORTAL』はファンタジックな描写が多い。対して『BBHF1』では、全編を通して尾崎雄貴の個人的な感情や私生活とも取れるリアリスティックな詞が目立つ。

そして、『BBHF1』における具体的な描写は、『PORTAL』を補完する役割を担っている、とも考えられないだろうか。言うなれば尾崎雄貴のファンタジー・サイドが『PORTAL』、リアル・サイドが『BBHF1』であり、対を成す両者は2作で1組である──と捉えれば、また作品に新たな奥行きが生まれるだろう。

後書き

この10年間、決してここには書き切れない様々な有象無象が駆け抜けていった。悲しみや絶望の淵に立たされることもあった。しかし、『PORTAL』は何食わぬ顔をして、いつでも筆者を「ここではないどこか」へと連れて行ってくれた。そして、11年目も12年目も13年目も、変わらず傍にあり続けてくれるアルバムだと信じている。

あの日、HMVで『PORTAL』を手に取った自分に声を掛けるとしたら、こう言いたい。

「そのアルバム、きっと君にとって素敵な世界への『入口』になってくれると思うよ」

對馬拓