写真的観点から考えたヒグチアイ「東京にて」~マクロな群衆から見えてくる大都会

写真的観点から考えたヒグチアイ「東京にて」~マクロな群衆から見えてくる大都会

 

私は文章を書くこと以外に、写真を撮ることも趣味にしている。写真の撮り方はそれこそ、いくらでもある。風景を撮ったり、人物を撮ったり。はたまたよく目を凝らさないと見えないものに焦点を当ててみたり。

それぞれが「見たいもの」にフォーカスを当てて、そこに流れる空間を切り取る。

音楽の中に「写真」の要素を見る

ヒグチアイ「東京にて」を初めて聴いた時、私は自分が夢中でシャッターを切っている時のことを思い出した。ファインダーを覗き、そこから見えるものにだけ視線を注いでいる集中力とひたむきさを、この曲にも感じた。東京、という風景の中に生きる人々を、1人ずつマクロレンズできめ細かな皮膚まで写し取っている歌。よく見える、というより見えすぎなほどに迫ってくるリアリティに、衝撃に似たものを感じた。

これは、マクロレンズで撮った「写真」だ。そう、思ったのだった。

ヒグチアイの歌声から感じること

ロックバンドから見える東京 ホームレスから見える東京

ピンヒールのOLの東京 どれも嘘でどれも本当

―「東京にて」より 

 

有象無象がひしめき合う大都会で、生きる人々。誰もが気にも留めていない誰かの人生。もしかしたら自分だったかもしれない、他人の生き様。

そういったものを羅列して、彼らから見えている東京はどれも嘘でありどれもが本当だと歌う。その歌声は時に掠れ、頼りなく思われるけれど、つきん、とどこまでも空を切っていく強さを見せる。東京という街が似合う歌声だと感じた。東京の脆さ、大きさ、弱さ、優しさ。そういったものをすべて抱き込んでいる声が、ヒグチアイの歌声なのだ。

東京という偶像が内包する人格

マクロレンズとは、小さなものを大きく写し取る時に使われるレンズだ。たとえば花に止まる虫だったり、コップの中で踊る水泡だったり。取るに足らないと思えるそれらを主人公にして、ドラマチックに描き出すことに長けている道具である。

それをそのまま、この「東京にて」という歌を語る際に置き換えたい。マクロフォーカスされた「群衆」の中に「東京」という大きな像を結ぶ。一人一人を繊細に映し込んでいくことで、彼らの生きる場所である東京という街が偶像としてそこに浮かび上がってくるのだ。 

楽曲を聴いた時に感じる切なさはどこから来るのか

東京、とはしばしば”信じる”対象になる。夢、希望、祈り。大小さまざまな範囲で何度も繰り返されるそれらの感情は、蛍の光のように儚い。東京はそれを無慈悲に裏切ったり、諦めさせようとする側面を持つ。

歌詞の中で具現化された群衆の一人一人は、東京という街の人格めいた部分に翻弄されながら、毎日を生きている。楽曲を聴いたときに感じる切なさは、こういった部分から来ているのではないだろうか。

常に変化し続ける街で生きる私たち

渋谷も変わっていくね

オリンピックがひかえているから

―「東京にて」より

東京は、変わっていく。大都会はつねに多面的だ。
ある人にとっては闘いの場所であり、またある人にとっては癒されるための家である。国としての諸活動に欠かせない地でありながら、世界から見れば1つの首都にすぎない。
そして、産毛が抜け落ち、また生え変わるように都会のコンクリート・ジャングルは生え抜きを繰り返し、栄養をたくわえながら成長している。

そこで暮らす人間たちに必要なのは、これまで以上の気力と体力だ。そうしないと、東京に振り落とされていくから。街の抱くネオ・ジェネレーションに置いて行かれてしまう。だから、ヒグチアイはこの「東京にて」という歌を通して群衆をエンパワメントする。

強く生きていくために必要なこと

 誰かの作った方程式じゃない 新しい答えを作ろうよ

―「東京にて」より


私たち1人1人が、ちゃんと東京で生きていけるように。自分を見失わないように、自分だけの東京という定義をつくろうと呼びかける。
次世代に必要な生きる上での力強さは、ここにある。ヒグチアイは、自らを奮起させながらこの歌をうたい、人々を街へと押し出していく。

楽曲に繋がる、モノの視点と撮影における手法

人が人として生きるエネルギーをマクロで表現し、そこから焦点距離を取って広い視野で街を俯瞰する。遠くから近くへと寄るのではなく、息遣いすら感じ取れるほどの距離から、深呼吸をするように遠くへとまなざしを解放していく。
それは一種の「モノを見るときの視点」であり、同時に「自分が撮りたいと思うものを撮るときの表現手法」なのだ。

ヒグチアイは、東京と群衆を被写体に選んだ。東京、という図に存在する個人をまず描き、そこから街を描写した。それは、至近距離からゆるやかに上昇して、東京の街を俯瞰するMVを見ても感じ取れる。

スナップ写真、ポートレートとしての「音楽」

同じように、写真的描写を感じる楽曲としてamazarashi「タクシードライバー」がある。ランダムでタクシーに乗り込む個人(客)が、他人であるタクシードライバーに鬱屈とした感情を吐露する、という体で表現してみせているこの作品は、偶然の一致でできあがる被写体を選ばないスナップ写真とでもいうべき作品だろうか。

一方で個人的な描写が際立つ楽曲として、菅田将暉「台詞」がある。こちらは言うなれば、より写実的なポートレートだ。女性に対するままならない恋心を俗っぽく語る歌詞から想像できるのは、彼がカメラマンとして裸体の彼女をポートレートで撮影している構図だ。こちらはヌーディーな、女性の曲線がはっきりと写し取れる写真的描写、といえるだろう。

個人の追憶に委ねられる、ヒグチアイ「東京にて」

今回の楽曲を聴いて感じたのは、音楽は写真との互換が成立する、ということだ。聴くものと見るもの。受ける器官は違うが、それぞれ人にもたらすものは「作品に触れた時に残る感情」として共通である。ヒグチアイの「東京にて」はこの両面において非常にエモーショナルな楽曲であり、聴く者の心を揺さぶる。

風景としての東京、個人としての東京。どちらも嘘で、どちらも本当。
ここで描かれた東京は、はたして私ではない誰かが聴いたらどんな風に捉えられるだろうと考えながら、今日も大都会のどこかで生きる人たちを思う。

安藤エヌ