【エッセイ】私の「ピーナッツバターシークレット」はPM11:00のバスルームに
2021年5月22日。PCの前で待っていた。お笑いコンビ・ラランドのサーヤがCLR(クレア)名義で、鬼才・川谷絵音のプロジェクト、美的計画に参加するというのだ。どちらのファンでもある私にとって、YouTubeチャンネル・blackboardでのコラボ映像はどうしても見逃せないものだった。
その日披露された楽曲は「ピーナッツバターシークレット」。ヒップホップを好んで聴くというサーヤの特性を活かしたラップ。ゆるやかなテンポが逆に歌い手のリズム感を引き立てており、メロディにはどこか懐かしさもある。
心地良い歌声に身を委ねながら、ぼんやりと考えていた。私にとっての「ピーナッツバターシークレット」を。
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ステージには無縁の人生だった。
特技があって目立つ、なんて場面は1度もなかった。反対に、私の周りには「光を浴びる側」の人が多かった。ミュージカルをやっていた親友の舞台やクラリネット奏者の友人の演奏会に足を運ぶ時、その眩しさに圧倒された。
ステージを前にするといつも思う。世界が<あっち側>と<こっち側>に分断されているみたいだ、と。
そして、私はいつも<こっち側>の人間だった。
とはいえ、嫉妬にまみれて生きてきたわけじゃない。人には得手不得手があって、私はそういう風には生まれなかったのだと妙に納得していた。
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今から10年ほど前、スナックで働いていた。暇で自由な大学生だった私は雇う側からすると便利な存在だったようで、とても重宝されていた。
「この仕事が向いてるよ」とオーナーに言われる時「だって自分の意見がなくて、従順で扱いやすいから」と見えない語尾が聞こえた気がした。
スナックで過ごす日々の中、頻繁に言われた言葉がある。
「きみは褒め上手だね」
言葉通りの意味で言ってくれた人もいれば、中には嫌味を込めて言っていた人もいたように思う。「口が上手い」や「媚び上手」なんて尖った言葉に加工する人もいた。
確かに私は人を褒める方だと思う。相手の良いところは素早く見つけられる自負がある。
ただ、「なぜ人を褒めるのか」と聞かれると言葉に詰まってしまう。それがあまりに斜め上の動機だったから。
人を進んで褒めるのは、正直なところ、「立場を明確にしたいから」だった。
人を褒めると、会話が自然と相手に関する話題になる。その人を舞台に上げ、自分は客席に座ることができる。
自分を話の主役にしないことが、<こっち側>の私にとっては居心地が良かった。
あなたは<あっち側>、私は<こっち側>。その事実を相手にいち早く感じ取ってもらうことで、自分の平穏な立場を保っていた。
この歪なプライドで、どれだけ臆病な人間であるか分かってもらえるだろう。とにかく私は、「自分」がバレない安全な場所にいたかったのだ。
人を褒め、相手を舞台に上げることで、私は「光の前に引っ張り出されて慌てる自分」のかっこ悪さを知らずに済んだ。
そんな臆病で自信を持てない私にも唯一のステージがあった。
それは、お風呂場での鼻歌。学生時代に下宿していたアパートの狭い浴室で、いつも気分良く歌っていた。
そして、それは今でも変わっていない。
忙しなく子供をお風呂に入れ、21時に寝室に連れていく日常。子供が寝静まったのを見計らって、私はいそいそとリビングに戻る。22時からの1人時間。
それからお風呂を追い炊きして、熱いお湯に1人で浸かる。2度目のバスタイムは至福の時だ。そこで音楽を流し、気ままに歌う。
23時のバスルーム。観客のいないステージ、他人には見えないスポットライト。
私は、誰にもバレないように自己顕示欲をつまみ食いする。
* * *
サーヤの歌唱は良い具合の脱力感と地声を活かした艶っぽさがあった。魅了された私はSpotifyでその歌声を繰り返し聴き、自然と口ずさむようになっていた。
ぬるくなった炭酸水を飲みながら、お風呂のお湯が再び熱くなるのを待っていた。1度冷めたものもスイッチ1つで熱が入る。便利で扱いやすくて、「いつかの誰かみたいだな」といつも思う。
今夜も明日の夜も、あの秘密の空間で私が歌うのはきっとこの曲なのだろう。
‘‘ピーナッツバターシークレット
それ自体もっと甘くなった
tiny tiny tiny
baby baby baby’’
誰にでも秘密があるんじゃないだろうか。人には言えないような恥ずかしい秘密——シャツをめくった先の、日焼けしていない素肌みたいな。
私はきっとこの先も、自分の「陽の当たらなさ」を実感して生きていく。
平凡であることだって私らしさの1つだ。抗うつもりはない。
けれどいくつ歳を取っても、あの頃と同じようにお風呂場でだけは気ままに歌っているはずだ。自分の世界に浸かっている時のあの安心感は、もうとっくに手放せなくなっていた。
だから私は今日も、ピーナッツバターのように甘い秘密の時間をこっそりと楽しんでいる。
浴室の鏡に映る姿を、一生誰にも見せることはないだろう。
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みくりや佐代子
