【エッセイ】生活はできそう?/それはまだ、だとしても──Syrup16g『COPY』20周年に寄せて

【エッセイ】生活はできそう?/それはまだ、だとしても──Syrup16g『COPY』20周年に寄せて

2021年が終わろうとしている。突然強いられた様々な変化にもすっかり慣れました、とすまし顔で言ってくる自分がいる。新居の内見に行った。窓から見えた静かな街並みは、恐らくパンデミックの前と大きく変わってはいない。しかしここからでは覗けない、それぞれの営み、生活は大きな音を立てて変わってしまったのだろう。そんなことをぼんやり考えていると、ふと頭に流れる曲があった。

「生活」が瓦解していく東京の街で

2020年の4月、私は40度近くの高熱を出して1人寝込んでいた。身体中の関節が軋み、目の奥に延々と鈍い痛みが襲い、食事も睡眠もままならず、これぞ生き地獄といった具合の数日間だった。

流行り病だったのか? 今でも分からない。当時は1度目の緊急事態宣言下、保健所は逼迫し、PCR検査の体制も十分に確立されていなかった。私は結局、自分が何の病気だったのか確かめることができず、そのまま苦しい自宅療養を経て、ほぼ自然治癒で完治を迎えた。

その時ほど自らの生命力に感心したことはない。痛みと怠さでほとんど起き上がれず、ゼリーなど簡単な食事しか喉を通らない。あとはひたすら清涼飲料水をがぶ飲みした。ただでさえ職場は「宣言」によって休業に追い込まれ、シフトに入る時間が激減、当たり前の生活が文字通り音を立てて瓦解し、このままではその日暮らしすら危ういというかなり最悪な部類の状況で、しまいには原因不明の高熱に倒れ出勤停止──そんな、もう笑ってしまうくらいの悲劇の連続を味わった。ヤケになるか絶望するか、とにかくどちらかに振り切れてしまっても良さそうなものだったが、私はとにかく「生きること」を考えていた。あまりにも「やり残していること」が多すぎたのだ。

あの頃に比べ、流行り病は(少なくとも日本国内においては)かなり落ち着きつつある。ストレスを丸め込んで思考がようやく冷静になった今、東京の片隅で生活の瓦礫を背に息も絶え絶え横たわっていた自分を振り返ると、まあよくぞここまで復興したもんだ、と褒めてやっても良い気がする。

「生活」。Syrup16gの『COPY』というアルバムに、その曲は入っている。

“生活はできそう?
それはまだ
計画を立てよう
それも無駄 ”

こんなにも諦めてしまって良いのだろうか──それがSyrup16gを初めて聴いた時に抱いた率直な感想だった。当時、実家暮らしの大学生だった私は、「自立して日々の生活を送る」なんてものは想像ができなかった。しかし、今となっては嫌でも「生活の難しさ」が分かりすぎてしまう。食べ終わってすぐ食器を洗おうと思ってもどうせそのまま寝てしまうし、奨学金の返済の引き落とし口座をいい加減変えなきゃと思い続けてもう3年以上経つし、貯金しようと思った矢先に思いがけない出費が襲ってくる。ましてや、ここ2年ほど社会はこんな有様である。首が回らなくなった人もたくさんいるだろう。

幸いなことに、社会不適合者予備軍に見えて私には助言をくれるパートナーや友人、手を差し伸べてくれる地元の家族がいた(これはものすごくラッキーなことなのだ)。そのおかげで、私は私を諦めることなく、こうして2021年を生きている。

躁と鬱の狭間、あるいは諦念

2021年は、Syrup16gの『COPY』がUK.PROJECTからリリースされて、ちょうど20周年を迎えた年でもあった。リアルタイム世代ではない私にとって『COPY』が20歳になったという事実は今一つピンと来ない。そもそも、彼らと出会った当初は『COPY』が自分にとって大事なアルバムになるとはあまり考えていなかったし、帯に大きな文字で「君 に 存 在 価 値 は あ る の か」などと書かれたアナログのリイシュー盤を買うことになるなんて想像もしていなかった。

20年前の私は小学生だった。当時をどんな風に過ごしていたのか、自分のことですらまるで覚えていない。ただ、少なくとも圧倒的に無邪気だったあの頃から随分歳を取ってしまったという、ありきたりで、とてもつまらない感傷が胸を掠めていく。

Syrup16gに救われた瞬間が、私にも何度かあった。再結成を機に彼らの音楽を聴き始め、リアリズムとシニシズムに満ちた言葉たちにすぐさま惹かれた。就職活動で内定がもらえない「負け犬」の自分は被害者で、五十嵐隆はそんな私を主人公にしてくれる存在だった。

実際、社会に出てからの現実の方がよっぽど厳しく、日々の事象と情緒が躁と鬱で揺れ動く穏やかではない日々が待ち受けていた。学生時代の自分の悩みなど本当にちっぽけなもので、リクルートスーツで身を固め、Syrup16gを聴きながらくたびれた顔でそれっぽく電車に揺られていたかつての自分が、なんだかとても浅はかで滑稽に感じられた。

仕事や人間関係が全く上手くいかず、何もかも噛み合わなくなって、とりあえずどうにか日々をやり過ごさなければならなかった時も、『COPY』はとにかく優しい言葉をくれた。いや、優しい、というのはもしかすると語弊があるのかもしれないが、私は五十嵐隆の言葉を攻撃的な文脈で捉えたことはほとんどない。“君は死んだ方がいい ”と容赦なく一方的に断罪する「デイパス」も、“土曜日なんて来る訳ない ”と完全否定する「土曜日」も、不思議と逆説的な何かを感じるのだ。

それは、やはり五十嵐隆の根底を貫く諦念の感覚がそうさせているのではないだろうか。半歩間違えれば世捨て人のような言葉をしゃがれ声で吐く五十嵐隆の、諦念という、思考を何周も回った果ての美学。とてつもない。彼のそんな言葉たちが、安定できない私を「ここ」に居留まらせてくれた。

諦念は、決してネガティブな側面ばかりではない。様々な物事に対して納得のいく形で折り合いをつけることは、生活を送っていく上で多かれ少なかれ必要だ。もしかすると、五十嵐隆の諦念はきちんと折り合いのついたものとは言えないかもしれない。しかし少なくとも、私がどうにか生きていくためのヒントや手助けにはなっている。それだけは確かだった。

* * *

“生活はできそう?
それはまだ
計画を立てよう
それも無駄 ”

──だとしても、だ。

何もしなければ、ただ何もない日々が過ぎ去っていく。それで良いという人もいるだろう。私は違う。新居からあの街並みを眺めながら生活する日常を確かなものにしたいという感情が、今の私を前へ前へと動かしている。

まだまだSyrup16gにはお世話になるよ。きっと。

對馬拓