【エッセイ】放り投げた春(indigo la End『さようなら、素晴らしい世界』リリース10周年記念)

【エッセイ】放り投げた春(indigo la End『さようなら、素晴らしい世界』リリース10周年記念)

高校は居心地の良い地獄だった。

住んでいる街の沿線にある総合高校を志願するも、偏差値が足りなかったことから門前払いを受け、泣く泣く実家から電車を乗り継いで50分程かかる都立高校へと進学した。3月11日公開の「金曜日の編集部」の告知に際して暴露したが、卒業式の朝に私が担任に黒スプレーを噴射された、あの怨念と青春のごった煮のような場所である。

廊下を歩くと、背後から教師に向けた女子生徒の罵声が聞こえるのが日常茶飯事だった。品行方正な大人に育って欲しいと願い、教育熱心だった両親は入学して最初の授業見学に訪れるなり目を丸くし、以降は何かと言い訳を付けて欠席、結局、卒業式の当日を除いて二度と足を運ばなくなった。第一志望でも第二志望でもなかった高校へ進学することが決まった時、既に私はもう高校生活において努力はしないと決めていた。結果、一年次には学年首位だった成績は、二年次に上がると途端に下から数えた方が早くなった。受験期から通っていた地元の学習塾も仲の良い学生講師と雑談しながら、大して伸びもしない成績表を横目にダラダラと続けていたし、予備校は3回出席して周囲のペースに追い付くことができずに通うのをやめた。

3回折りにしたチェックのスカート、気分に応じて赤にも黒にも紫にも変わるセーターの色、体育教師でもないのにジャージを着た厳格な学年主任と、優しさが仇となって生徒からナメられる新米教師。混迷した高校生活を送る中、私は軽音楽部に所属していた。担当はギターで、GO!GO!7188の「こいのうた」やアニメ『けいおん!』のエンディング・テーマ「Don’t say ‘‘lazy’’」、ASIAN KUNG-FU GENERATION「君の街まで」なんかをコピーした記憶がある。とはいえアクティブな部活ではなかったし、部費も最小限にしか与えられていなかったので、ライブハウス主催のイベントに出るとか、そういった行事は一切なく、ただ各々が自由に、宿題とバイトと上手く折り合いをつけながら緩く活動を行っていた。だけどそういう部内の雰囲気も含めて、すっかり怠惰になっていた当時の自分には都合が良く、ありがたいとすら思える環境だった。

* * *

ある日の活動日、一番親しくしていた2学年上のR先輩が「好きだと思う」と言って、まだデビュー前のゲスの極み乙女。のアルバム『ドレスの脱ぎ方』を部室のCDラジカセで流していた。奇抜な音像は好みではあったものの、終盤にかけては腹十二分目ぐらいになってしまったので、「インディゴの方が好きです」と正直に先輩に告げた。先輩は「そっちか〜」と言ってはにかんだ。

その後ゲスの極み乙女。は瞬く間に売れ、フロントマンである川谷絵音はお茶の間でも度々見かけるようになったが、indigo la Endの方が先であったはずなのにゲスの極み乙女。がプッシュされることには甚だ疑問を抱いていた。indigo la Endの狂信的なファンでもなければ、ゲスの極み乙女。を特別嫌厭していたわけでもない。完全にただのエゴでしかなく、自分がより惹かれた方に照射されないことが、荒廃した都立高校に通う怠惰な女子高生ながら、ほんのにわかに寂しかったのだ。夕飯を囲んだ家族の会話は、親の期待通り第一志望への進学を叶えられなかった私ではなく、国公立に進んだ成績優秀な兄たちにスポットが当たっていた。何度か、それとなく自分にも興味を示してほしいと伝えたことはあるが、その声は届かなかった。私がindigo la Endに惹かれていた理由には、今思うとその孤独心から来る寂寥と重ね合わせていた、という面も持ち合わせていたのかもしれない。

‘‘太陽が消えた国の空を見上げて 積み上げたもの全部放り投げたのさ’’

『さようなら、素晴らしい世界』の3曲目に収録されている「夢で逢えたら」をアラームに設定していた。なぜだか、ほかのどんな曲よりも自然に起きることができたのだ。だから、「好きな曲をアラームにすると次第に苦手な曲になっていく」ことは起こらなかった。

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高校2年生の時は月・木が活動日として割り当てられていたので、火・水・金の夜と土曜の日中をバイトに当て、ライブのチケット代や物販代etc. を地道に稼いでいた。当時、最も長く続いたバイト先の先輩が辞めたと同時に「次のルーキーだね」なんて店長や同期から言われるほどには多くシフトを出していたと思う。限られた数の友人としかつるんでいなかったし、何しろ家から学校までの距離が遠かったから、放課後友達と遊ぶなんてことは滅多にしなかった。マックで駄弁っているだけでも帰る頃には日が暮れてしまうのだ。

だけど、その年の秋に軽音楽部を辞めた。皆、特にこれといった刺激を得られないバンド活動にマンネリを感じていて、段々部室へ向かう足取りが重くなっていったのである。それは思春期の多感な学生にとっては、極めて自然な感覚であった。一方私自身は特に外部からの刺激を求めていたわけではなく、自分を一般の高校生として繋ぎ止めるものがバンド活動だったから、できれば続けていたかったのだけど、「皆が辞めたいなら辞める」と適当に同調して退部届を提出した。皆が青春のネクストステージへ進もうとしている間に、一人取り残されてしまうのはどうしても避けたかったのだ。今よりもずっと内気な性分だったから、目立った行動には出ずに、周りをよく見て息を合わせていないと知らぬ間に省かれてしまいそうで怖かった。自分の意見は四の次ぐらいでいいのだ。翌日、Squierの黒いテレキャスを、バイト先のある吉祥寺のサウンドクルーで売った。定価が安いので大した小遣いにもならなかった。セザンヌとかキャンメイクとか、あの辺りのラインのプチプラコスメを2〜3個購入すれば、綺麗に遣い切ってしまうような売値だったはずだ。

晴れて自由の身になった私の高校生活はさらに爛れたものへと加速していった。教室移動がない金曜日は一限から四限まで寝倒して、購買へと走る同級生の足音で目が覚めた。入学当初、過度に期待するのはやめようと思いながら過ごしていたはずが、バンドを組んでいた頃の自分がただ眩しく見えていた。高校生活最後の年は、親友とくだらないことで半年間口を聞かなくなったことも相俟って最悪の年だった。今、当時の自分を振り返ってみても、あれほど青春を浪費していたのは、少なからずあの高校では自分だけだったと思う。

同じ年の12月某日、授業を終えるなり駆け足で駅へと急いだ。その日は、当時代々木公園のほぼ敷地内にあったSHIBUYA-AXでの無料イベント『LOVE! LIFE! LIVE!』の開催日だったのだ。出演者にはSilent Sirenや真空ホロウ、新山詩織らが名を連ねたが、私の目当てはもちろんindigo la Endだった。思いの外、会場内は両腕を広げられるほどスカスカで、嬉々としながら進んで柵の前を確保した。

このイベントのトリを務めたのはindigo la Endで、MCでは川谷絵音が少女マンガ『東京ミュウミュウ』の話をしていたことだけが微かに記憶に残っている。indigo la Endを観るのはこの日が初めてで、以降今日に至るまで私はindigo la Endのライブに足を運んでいない。

‘‘音のない部屋をノックして 騒ぎ立てるのが得意だった’’

彼らは『さようなら、素晴らしい世界』の1曲目、「緑の少女」で幕を開けた。叙情的であるのに解放感すら得られる歌声は、青春をあっさりと手放してしまった17歳の私に張り付いて、「うた」として心を潤した。

目の前で演奏するそのバンドを観ながら、あの時、本当は引き止めたかった、という思いが脳裏を過った。それでなくとも、自分だけは残るとか、別のバンドを組んで心機一転やり直すとか、色々手立てはあったはずだ。後輩から「ライブ、観に来てくださいよ」と声を掛けられるのが怖くて、部室として割り当てられていた視聴覚室には極力近付かないようにしていた。中途半端なエネルギーだけで私に弾かれて、呆気なく売り飛ばされてしまったあのテレキャスターは、今後誰かの元に渡ることがあるのだろうか。その時があるとするならば、私みたいなブランド名に似合わず乾いた心を持った女子高生ではなく、川谷絵音のように才気と情熱に溢れた人の元へ渡っていてほしい。

アンコールは「素晴らしい世界」で、終盤の‘‘さようなら 素晴らしい世界’’のフレーズと共に川谷一人にスポットが当たり、幻想的で厳かな空間が真冬のSHIBUYA-AXに生まれていた。さようなら、素晴らしい世界。自信がないばかりに、取り返しのつかないことをした。終演後、暫くの間立ち竦んで、ひとしきり泣いた。

‘‘帰る場所はあるけど帰りたい場所はない’’

片道1時間半、段々と閑静な住宅街へと景色を変えるJR中央線に揺られながら、今日観た光景と明日のバイトのことを考えていた。家に帰ったとて、母は兄の方にばかりに視線を注いで、私には目もくれない。駅構内のコンビニで夕飯を買って、早く寝ようと思った。

* * *

冒頭の珍事件が起きた卒業式当日を迎えるまで、私のアラーム音は相変わらず「夢で逢えたら」だったし、授業中の居眠りは改善されなかったし、川谷絵音は「しゃべくり007」に出演していたし、ゲスの極み乙女。は紅白歌合戦に出場していた。2015年にリリースされたアルバム『幸せが溢れたら』を最後に、私の興味の対象はindigo la Endではなくなってしまった。

‘‘即席で作った想像はすぐ溶けてなくなる 間違った道はずっとずっと続いている’’

「Warhol」で語られるこの言葉を、大人になった今も時折反芻している。

私は結局プレイヤーとは無縁の生活を送り続け、演者の側ではなく、こうして音楽と密接にあるテキストメディアの運営を行っている。当時のバンドメンバーとは誰一人連絡を取り合っていないので、私にとっての軽音楽部は「即席で作った想像」として記憶の片隅に追いやられたままだ。

それでも奇怪な縁だと思うのは、SHIBUYA-AXは2014年に閉店したが、同じく最寄駅を原宿にして今の職場がある、ということだ。もちろん単なる偶然に過ぎないのだが、あの日以降、indigo la Endを観ていない側の視点から言わせてもらえば、代々木公園の方角に目を向けると時々、あの日の川谷の喉元を震わせながら歌う姿を思い出しては、当時の中途半端な制服姿の自分の像が浮かび上がる。

居眠りの分だけ皺を増やしていた制服は、高校卒業と同時に処分した。後悔と怨念と偽りの青春を強火で数分煮込んで鍋底を少し焦がしたような高校生活は、一刻も早くに忘れてしまいたかった。制服ディズニーとかしておけばよかった、と19や20の頃は思っていたけど、25を目前に控えた今は、あの時処分していなければきっとタイミングを失っていたと思うので良かった、と安堵している。

脱稿を目前に、今でもやはり後悔しているのだ、と改めて思う。自分自身を照らすためのスポットライトを用意してやれなかったことに。本当は卒業ライブを迎えるまでバンドを続けていたかったし、志望校ではない場所であっても青春に食らいついて、その火が消えてしまうまでの短い期間を懸命に生きていたかった。

今更何を愚図ってもあとの祭りなので、懺悔はこのくらいに留めて締めようと思う。『さようなら、素晴らしい世界』は今日で発売から10年を迎えた。本稿の執筆にあたり、このところは毎朝このアルバムを聴きながら会社へ向かっていた。山手線の窓に映る大人になった自分の顔は、卒業から6年が経過した今でもどこか幼く見える。代々木公園へ向かう花見客に紛れて、社会人4年目を迎える私が原宿駅の改札を抜ける。

 

‘‘ありがとう こんな僕も入れてくれて
だけどこれからは 一人で生きていくよ’’

星野