【エッセイ】「曖昧に生きる」を許されたい──TOMOVSKY「明日、君に会うのか」

【エッセイ】「曖昧に生きる」を許されたい──TOMOVSKY「明日、君に会うのか」

Twitterをあまり見ない日が続いた。日々議論が飛び交い、何が正しくて何が間違いなのかを仕分ける声で溢れている。気が滅入った。疲れてしまったのだ。

現実に疲れて空想に走る、と言うが、私にとってはインターネットがむしろ現実だった。この世の嫌なところをまざまざと見せつけてくるツールだと捉えていた。

「道を歩いているとこんな酷い言葉をかけられました」「役所に相談するとこんな冷たい対応を受けました」いつも誰かが訴えている。
「そんなことでいちいち騒ぐなよ」「当たり前、自業自得」いつも誰かが嘲笑している。
「目指せ何万人フォロワー!」「年収何千万になった方法教えます!」いつも誰かが競っている。

そんなツイートがタイムラインを席巻していて、ああ、今生きている世界はこんなにも騒がしいのかとゲンナリしてしまった。そうして逃げた。何かに参加させられる前に。

6月上旬、ひたすらカフェで本を読んだ。小説、実用書、エッセイ本。アイスコーヒーをすすりながら、ふと気づいたことがある。今読んでいるこの本の中にも、いくらでも議論はある。何が正しくて何が間違いかが積極的に仕分けされている。あの議論の波はインターネットに限った話ではなかったようだ。

ではなぜ、同じ議論でも本ならば受け入れられたのか。答えは簡単で、本は受容的だった。筆者の言わんとすることをこちらが汲み取って、こちらの都合で解釈すればそれでよかった。私は時間をかけて考えることができた。
Twitterで感じたあの居心地の悪さはきっと、「あなたはどの立ち位置なのか」と常に問われているような気になっていたからだ。街に巣くう問題の前で、そしてそれに対する活発な議論が飛び交っている前で、無反応は悪だと思った。だからどうにもバツが悪かった。

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「明日、君に会うのか」。TOMOVSKYの13枚目のアルバム『秒針』に収録されている一曲だ。トモフの伸びやかな歌声が堪能できるミディアム・テンポなナンバーで、ここ最近よく聴いている。

トモフの楽曲は哲学的な歌詞が多い。単純なことを言っているようで、深い。「明日、君に会うのか」は特に言葉数の少ない楽曲で、だからこそ聴き手に想像させる大きな余白がある。

‘‘曖昧で 残酷で 愚かで 不自然だ
知らないフリしていくんだ こうやって自分を守るんだ’’

冒頭の歌詞が心に沁みた。曖昧な態度で答えを示さないことは残酷で愚かだと自分でも分かっている。それでもそれが「自分を守る」術なのだとトモフは歌う。
聴きながら、思いがけず救われた。無責任な自分が許された気がしたのだった。

‘‘大人のような子供のような 暗黙のルールでまわしてゆくよ
思ってるコト全部連れてかないように そうやって今までつながって来たんだ’’

正しさが尊重され、世界が良くなっていけばいい。けれど曖昧なこと、答えのないことも受容される世界であってほしいと思う。誰かと誰かがぶつかる時、そのどちらにも譲れない正義があって、相容れないパターンがある。どちらかを切り捨てるかもしれないと恐れると、結局どちらの手も取れない。そういう臆病な曖昧さを、私はずっと許容してほしかった。

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自分が正しいと思うものを選択し、「いいね」を押す。私たちは暇つぶしに眺めているように見えて、実際は無意識のうちにジャッジを繰り返している。それも切り取られた情報の一部だけを基にして、素早い判断を重ねている。

もし、そんな状況に疲れている人がいたら、一度SNSから離れてTOMOVSKYを聴くことを推奨したい。曖昧で残酷で愚かで不自然な、あなたのそういう姿もきっと肯定してくれる。

いつだって正しさだけでは生きていけない。
自分と違う人を裁くような気持ちで生きていたくない。

「明日、君に会うのか」の歌詞から見えるのは、一見だらしないようでも本当はそうじゃない、いじらしい人間味だ。そしてその人間味こそ、インターネットに蔓延する「正しさの分断」の中で静かに失われていくように思えてならないのだった。

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みくりや佐代子