My Bloody Valentineと僕--豊洲PIT公演回顧録

My Bloody Valentineと僕--豊洲PIT公演回顧録

2018年8月15日。忘れもしないあの日、僕は生まれて初めてマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのライブを観た。

初めてマイブラを聴いたのは、今から遡ること56年前。『Loveless』を貸してもらったのが最初の出会いであり、それは同時に「シューゲイザー」そのものとの邂逅でもあった。

それまでは「シューゲイザー」という言葉自体を知らなかった僕は、『Loveless』に大きな衝撃を受けた。自分が聴いてきた音楽とはあまりにもかけ離れていたため、僕の耳は完全に拒否反応を起こし、初めのうちはマイブラの音楽を全く理解することができなかった。

しかし、彼らの虜になるまでそれほど多くの時間は必要としなかった。幾多のレイヤーで構成され歪み切ったギターは混沌とした精神世界を作り出しており、そこに甘く囁くような歌声が合わさることでこの世のものとは思えない美しいサウンドスケープが生み出される。そこに感じられる深くねじ曲がった孤独感と僕自身はいつの間にか共鳴し合い、これは宗教なんじゃないかと悟った頃には既に手遅れ、僕はマイブラなしでは生きられなくなってしまったのだ。

それから、彼らが復活して単独公演やフェスなどで来日していることを知った僕は、いつか死ぬまでにこの目でマイブラを観たいと強く願うようになった。

そして2018年。SUMMER SONICの前夜祭である「SONIC MANIA」への出演と単独来日公演が立て続けに発表され、マイブラの5年ぶりの来日が決定。僕は豊洲PITでついに彼らのライブを目の当たりにすることになったのだ。

* * *

マイブラは本当に存在していた。会場のほとんど最後列にいたのでその姿や表情をはっきりと確認できたわけではないが、4人がステージに現れた瞬間、僕の目には涙が浮かび、視界がじわりと滲んだ。

マイブラのライブは、現象であり、混沌であり、創造であり、破壊だった。

ケヴィン・シールズ(Vo. G.)はギターを丁寧に操りながら、その背後にうず高く積まれた要塞のようなアンプから耳をつんざくような轟音を放ち続ける。その音はギターから鳴らされているとは信じられないほど強烈で、平衡感覚を失うには十分すぎた。

コルム・オコーサク(Dr.)は時に前のめりに突っ走るようなドラムプレイを見せつけたかと思えば、打ち込みのように延々と同じフレーズを正確に叩いたりもする。とにかくドラムの音量が尋常じゃないほど大きく、その衝撃波は身体の内側から蝕んでいくようであり、空間を叩き割るようでもあった。

デビー・グッギ(Ba.)はとにかくアグレッシブにベースを弾き続ける。全体の音量があまりにも大きすぎてベースの音がどれなのかもはや判別は不可能だったが、壁のように迫ってくるその爆音の一端を担っているのは確かだ。何よりもそのベースを力強く弾き倒す姿は、コルムのドラミングと共にマイブラの激しい部分を最も視覚的に伝えていた。

そしてビリンダ・ブッチャー(G. Vo.)の歌声はどこまでも甘美で儚く、その尊さは何にも代え難いものだ。爆撃機のような轟音の狭間から漂ってくる彼女の声は「救い」そのものであり、戦場に降り立った女神ようでもあった。

4人が生み出す音はかろうじて「曲」の形を保ってはいたものの、もはや「曲を聴く」というよりは「迫ってくる音にひたすら耐え続ける」という表現が適切だった。ステージ後方の巨大なスクリーンにはサイケデリックな映像がひたすら流れ続け、その模様はまるでケヴィンの脳内イメージを可視化したようであり、爆音も相まって注視すれば途端に気が狂ってしまうのではないかという恐怖に襲われる。人間が生み出したものとはとても思えない。

途中で脱落し会場を出て行く人たちもいた。無理もない、あの極度に過度なストレスがかかる空間に自ら身を置いている方がよっぽど頭がおかしい。あれは唸り狂うジェットエンジンの真横に立たされ続ける拷問を受けている、と表現しても差し支えないだろう。

そして、『Loveless』の最後を飾る「soon」は、この世で最も崇高なダンスミュージックだという確信を得た。全ての感覚は遠のき、ただ本能的に「心が踊る」という状態が自分を支配した。

「You Made Me Realise」10分ほど続くノイズパートは永遠のようだった。鼓膜を両側からぶち破るような轟音に身を委ねながら、この不思議な安らぎの中に一生閉じ込められていたいという気持ちと、もうこのまま帰れないのではないかという絶望的な恐怖感が限りなく拮抗していた。

気がつけばライブは終了。いきなり現実に引き戻された僕は、ただその場に立ち尽くしていた。

* * *

あれから1年。僕は東京で色々なライブを観てきたが、やはりあのマイブラの単独公演を超える体験には出会えていない。マイブラの、というよりはケヴィン・シールズという天才の美学が創り出す桃源郷を凌駕するものは、この先現れることはないだろう。「ライブ」というフォーマットで人間が体感できる極北の表現行為が、そこには存在していた。

そして、僕は性懲りもなく渇望する。「またマイブラのライブが観たい」と。

人は何のためにわざわざライブに行き続けるのか。好きなミュージシャンを生で観たいから? 自分の人生を彩ってくれる楽曲を実際に聴きたいから? 極端な話、それは一度行けば済むことだ。では、通い続ける理由はそう、「知ってしまったから」だ。

ライブでしか得られない感覚。歌声に身を委ね、音に陶酔し、血を巡らせ、生きている実感を得る。それを身体が一度知ってしまったら、もうそこから抜け出せなくなる。つまるところライブは「麻薬」であり、故に僕はマイブラの、あの凄まじい体験をもう一度したいと切に願うのだ。

ケヴィンはここ12年新作について言及はしているものの、リリースには至っていない。彼の完璧主義っぷりを考えればその程度の時間を要するのはほんの序の口と言えるかもしれない。きっと新作が出れば、また来日してくれるだろうと信じて、気長に待つことにする。

僕がこの記事でつらつらと書いたことが大袈裟に思えたあなた。僕は本当のことしか書いていない。ああ今日も僕は轟音を浴びている。どうしようもないな。

對馬拓