【短編】The Book of Love

【短編】The Book of Love

ロボットは名前を「I LOVE YOU」といった。今はもう亡き、人類への愛を基本のスペックとして搭載した、博愛主義の人工マシンである。

彼は長い間、人と接することなく孤独に過ごしてきた。人は愛を捨て、感情に左右されることのない快適な住処を見つけ、移住していった。ここにいるのはロボットの彼ひとりだけだった。

ある日、スリープモードになっていたところを偶然通りがかったひとりの女性に出会い、数十年ぶりにデータベースを更新するため彼はいくつかの質問をした。

「未来の人間は生殖本能が従来の人間より発達していますか?」

「いいえ。残念ながらかなり後退しているわ」

「既にこの時代の人は愛を必要としなくなったようです」

「そのようね。過去と未来は繋がっている」

数年後の未来からやってきたというその女性は、博愛も性愛も、何もかもが喪失された世界に暮らしていた。男女の区別はアダムとイヴのころからついていれども、そのようなセクシャルも形骸化し、労働やマナーやモラルのための基準として機能しているに過ぎないのだという。

廃墟のラブホテルで、人々の残していた愛の遺産を探しに彷徨っていたところ、ひとりぼっちで膝を抱えた「I LOVE YOU Ⅱ」を見つけた。女性は黙りこくったままの彼を背負い、ここまで来たのだという。

「ここは、海、ですね」

「そうね。汚い海。産業廃棄物と廃油まみれの、人類の過ちのひとつ」

そうでしょうか、私には綺麗に見えますけど、とロボットが言うと、「純粋なのね」と返された。オイルの切れた首を回しながら、ロボットは項垂れる。

「貴方、バージョンⅡということは、相手に愛をささやく言葉が旧式のⅠより豊富なのよね」

「そのようです。データベースを参照したところ、ざっと千万通りありました」

「その中から、私にささやくに相応しい言葉を、今、ここで選んでちょうだい」

ロボットは悩んだ。悩んでいる合間に、海の育む波が足元を行ったり来たりを繰り返す。琥珀色の波が打ち寄せる音だけが響く。やがて彼はネジの嵌め込まれた唇を動かした。

 

‘‘The book of love is long and boring(愛の教科書は長くて退屈だ)

No one can lift the damn thing(誰もこんなもの持ち上げられない)

It’s full of charts and facts,(系図やら真実やら、)

some figures and instructions for dancing(沢山の計算と、そしてダンスの指導でいっぱいだ)

But I,(でも僕は)

I love it when you read to me.(僕は君がそれを読んでくれるときが愛おしいんだ)’’

 

寸分の狂いもない歌声だった。声はなめらかに、海を走る燕のように波間を伝い、小さな振動を生んだ。英国でも欧米訛りでもない、彼のデータベースの中にある膨大な「人の記憶」から紡ぎ出された、誰かのようであり誰でもない不思議な発音の声だった。

 

「それ、大昔の歌じゃない。知ってるわ。曾祖父がよく私を膝の上に乗せて歌ってくれたのを覚えてる」

「この歌は、愛の歌です」

「そう、歌も言葉だものね」

「音楽とは、朽ちない言葉の羅列であり、孤独な人の友であり、時を超えるかけがえのない存在なのです」

 

「時間を超越して、物理的な温度を無視して、硬さや柔らかさを見ないふりして、愛というものの不可思議さを知ってみたい。

今はまだ、寂れた記憶の山から掘り返してるといったところかしらね。あるいは、形の良い貝殻さがし」

 

女性の手が、くすんだ砂に差し込まれる。指の隙間から逃げていく砂は決して美しいものとは言えなかった。それにこの砂辺には、貝殻がひとつも落ちていない。あるのは炭酸飲料の空き缶や、流木や、ビニールの残骸だけだった。

 

「──貴女が愛を理解するまで共にいることが、私にとっての存在意義のような気がしてきました」

「ええ、ぜひとも教えてもらいたいわ」

「あいにく性行為などはできませんが」

「ふふ、いいのよ。貴方と話していたら少しだけ遠回りをしてもいい、って思えてきた」

 

綺麗。

女性がこの世界に来て、初めて称賛の言葉を口にした。

それが何に対してだったのか、ロボットは分からない。

 

言葉や体で示せないものが、この世界にもまだあるのかもしれない。ロボットは考える。その意味が分かるのは、きっと千万回目の「愛してる」に似つかわしい言葉を言ったときなのだろう。

その中に自分の名前である「愛してる」という言葉自体はどこにもないことについて、彼は懐疑した。アイ、ラブ、ユーという単純な言葉は、もしかすると自分が想像する以上に、口に出すことが難しいのかもしれない。

 

 

さざなみの音を聴きながら、ロボットはそう遠くない未来と、いつか錆びて動けなくなってしまうまでの、わずかな時間の質量を考えていた。

 

愛の重みについて、静かで罪深い海と美しい女性を見つめ、歌いながら考えていた。

安藤エヌ