【短編】切りすぎた前髪、それとレイニーブルー

【短編】切りすぎた前髪、それとレイニーブルー

偶然なのか、その夜のラジオからも徳永英明の「レイニーブルー」が流れていた。

‘‘レイニーブルー もう終わったはずなのに
レイニーブルー 何故追いかけるの
あなたの幻消すように 私も今日はそっと雨’’

感傷的な歌詞が頭の隅に過る。結婚の前後に抱く不安や嫌悪感を表す「マリッジブルー」という言葉もそうだけれど、なぜ人は憂鬱な気分の時に青色を思い出すのだろう。私は青、という色を、祝福の色だと思っていた。少女時代に描いたウェディングドレスは青かったし、テーマパークに行けば青色の風船をねだった。今思えば一見縁がないように見えて、実はものすごく頑なな運命にも似たもので、私と憂鬱という感情は結ばれていたのかもしれない。

「それでね、とにかく私はその日、憂鬱だったの。しかも、雨も降っていた」

短く切り揃えられた髪を撫でつけながら、私は電話口に向かって、そっと話し始めた。

駅前のガード下にあるそこのサロンに行ったのは、何ヶ月か前のことだった。

私は雨が嫌いで、なのにその日は朝から雨が降っていて、どうしても仕事に行く気になれなかった。そこで雨宿りと称したボイコットを決め込むことにしたのだった。

小太りの上司にお咎めをくらうのを想像する。オペレーションの仕事をするには声が不可欠だ。なのに、声が出なくなってしまって、ええ、風邪で、熱も38度5分出て。そんな言い訳を考えながら、立ち止まって傘の先をつついていると、

「梅雨って、いやですよね」

いきなり声をかけられた。振り返ると、店の中から男が出てきた。色白の、背が高い男だった。黒いエプロンをしてアッシュグレイの髪を短く切りそろえた彼は、私よりもいくらか若く、社会人になりたてか大学生のように見えた。

「降ってますね」

「ええ」

腰には革のホルダーを付けていて、そこに入っているものを見て私はその店がサロンなのだと分かった。ホルダーの中から鈍く光る、でも優しい丸みをもったそれに対する私の視線に、男は気づいてホルダーの上を撫でた。

「雨が上がるまで、入りませんか 」

「──そうね。携帯が鳴っても気にしないことにする」

「何か、いやなことがあったんですか?」

造作なく、男が私の隙間に入り込んでくる。

微笑みかたも動作も、どこかつやがあり、廉直で、それでいていやらしくなかった。

 「ちょっと雨宿りしたいだけよ。良いかしら」

「もちろん」

私は、その声に促されるまま店に入った。

店内では徳永英明の「レイニーブルー」や「最後の言い訳」、「愛が哀しいから」が流れていて、私は両親が運転する車の後部座席でそれらを聴いていたことを思い出した。ちょうどふたりが結婚した頃にヒットした曲らしく、両親は幾度となく彼の曲を流し、私に聴かせていた。母の顔を隠すヴェールの白さを写真で見た時、思わず目がくらんで、幸せとはこんな何にも染まらない色をしているのか、と、幼心に思ったものだった。

「どうぞ」

「ありがとう」

カモミールの紅茶を出され、私たちは他愛のない話をした。

仕事の話、消費税について、去年同僚と行った別府の温泉旅行の思い出話。

その間、男はずっと私の湿気で広がった髪を撫でつけていた。それはまるで、心臓の表面を指の腹で触られているようだった。

くすぐったい。やわこい。気持ちいい。

話をしていることより、彼の指の動きに気が行って仕方がなかった。どうしてそんな触りかたをするのだろう。私たちは今さっき出会ったばかりで、恋人でもなんでもないのに。

「少し、切りましょうか」

彼が静かに言った。私はこく、と頷いた。自然な応酬だった。

彼がホルダーから鋏を取り出すその一連の動作は、もはや完璧じみていた。さらさらと音がして、私の髪をくぐる。やがてそれは歯を立てた。しゃきん、と小気味いい音が鳴って、髪が床に落ちた。

髪の先から伝わるじんわりとした微熱が、身体をめぐってひとところに落ちていく。肉体から離れていき、所在のなくなったものを沈ませるような手つきで、彼は私の髪を切った。

こんなに穏やかな気持ちになったのは初めてだった。何もいかがわしくない行為なのに、素肌を暴かれているような恥じらいを感じた。

この手に、もっと触れられたい。

そう思ったけれど、すでに彼の指には眩しく光った束縛の証があった。

彼はすでに、糸より確かなもので繋がれていた。

私には、決して破ったり壊したり出来ない尊さだった。それを見て、忘れていた呼吸を浅く吐いた。

「……ありがとう、もう行かなくちゃ」

そう言って椅子を立つ。鏡に映った私は、ほんの少しだけ髪が短くなっていて、顔立ちも幼くなっていた。

彼にお礼を渡して、私は店を出た。雨は相変わらず降っていた。

家に帰ろう。今日たまった仕事は、明日なんてことないような顔をして片付ければいい。久しぶりの休日を満喫しよう。ソファに寝そべって雑誌を読んで、砂糖をひとさじ入れたジャワティーを飲んで、そして。

「そうよ。私、髪を切ったの。鏡の前に台をつくって、その上に乗って乱暴に、でも後で広くなりすぎたおでこを見て泣くのは嫌だから慎重に切ったわ。案の定切りすぎたけど、まあ、これはこれで良いんじゃないかって思ってる。痛くもなんともなかったわ。だって髪の毛だもの。

つらくもなかった、これっぽっちも。ただあのサロンにはもう行かないってだけ。それだけのことよ」

青でも白でもなく、濡れたみたいに黒い私の髪が揺れている。一瞬だけあの人を繋ぎ止められたその髪を、自分の手で短くして、幻のような温もりを忘れて、雨のせいで濡れた頬を撫で私は言った。

「雨が降る音も、案外悪くないわね。今日みたいな日には、優しく聞こえる」

ひとつの気持ちが今そこで終わり、そんな私と繋がっていたのは、自分で握った何もつけていない薬指と、微かに青くけぶる雨の匂いだった。

それだけは私の中でいつまでも、泣きたくなるくらい優しいままだった。

安藤エヌ