【短編】雨やどり──「粧し込んだ日にかぎって」アイナ・ジ・エンド

【短編】雨やどり──「粧し込んだ日にかぎって」アイナ・ジ・エンド

窓を叩く雨にスマホをかざす。カシャ、と音がして雨は切り取られた。

雨やどり。

入力した文字を申し訳程度に縮小させて、カラー変更をタップ。グレーにしたらいい感じ。人差し指を画面に滑らすと、「雨やどり。」の文字がするするついてくる。

あ、ダメじゃん。×のマークをタップ。すると画面には「投稿を破棄しますか?」とポップアップが現れた。「はい」を選択し、最初からやり直す。今度は手元のマグカップがきちんと映るように撮り直して。橙色のマグカップにある、喫茶店のロゴが鮮明に分かるように。念のため。

「もしもーし。あ、うんうん、そう雨~。東口のカフェにいる。いや分かんない、アハハ。何て読むか分かんないこれ。エルなんとかってカフェ」

同世代くらいだろうか、隣の席の女が、同じ橙のマグカップを目線の位置まで持ち上げて言った。私はホットチャイに口をつけながら心の中で伝える。それは、ラ・プリュイと読みます。フランス語です。

隣でそんな講釈を垂れているとは露知らず、女は耳と肩で器用にスマホを挟んで「で、何時になる? そんな待てないけど私」と続けた。

作り直した「雨やどり。」の投稿は完璧だった。今日はたまたま休みで、たまたまこのへんに出てて、たまたま雨が降ったから、たまたまこのお店に入った。そういうことにしたかった。早く見つけてほしかった。

「いや待てん待てんそれは。行けて15分だわ。早く来て」

女は少し不機嫌そうに言い放ち、空になったガムシロップを指先で小さく回した。いとも簡単に相手を振り回せる優位性と、その乱雑な素直さを羨ましく思った。

スマホを裏返しに置いて、取り出したワイヤレスイヤホンを右耳だけ嵌める。メイク道具をぱらっと出すと、役目を失った左耳のイヤホンもその中に紛れた。アイブロウペンシルの先を傾けて、雨で消えかけた眉尻を足していく。あとはファンデ、パウダー、落ちかけのリップも直したい。

あの日、私たちはこのカフェで待ち合わせをした。「ここ、よく来るんだ」とあの人が言うから「え! 私もです」と上手に嘘をついた。店の名前をなんて読むかも知らなかったくせに。

「そうなの? じゃあ俺ら過去にここですれ違ってるかもね」
「そうですね」
「俺、そういう偶然会って~みたいな映画とかでありがちなやつ、案外好きなんだ」
「分かる。私も好き」
「でも偶然ってさ……」

あの日の会話が蘇る。それに重なるようにして、イヤホンからはアイナ・ジ・エンドのソロ・アルバム『THE END』が再生される。一曲目は「金木犀」。この曲を最初に聴いたのも同じ日だった。
あの人の部屋で、真っ暗な夜の真ん中にPCの明かりがぽつんと灯って、私たちは一つのシーツにくるまってそれを見た。「『THE FIRST TAKE』のコレがすごい良くてさ」とあの人は言って、その時間、世界は2人だけみたいだった。

それなのに。あれ以来、あの人から誘われることはなくなった。偶然会うこともなかった。「アイナのソロ・アルバム、私も買ってみた。」の投稿にも、「金木犀めっちゃいい~」の投稿にも、閲覧履歴に並ぶアイコンの中にあの人はいなかった。

あれ以来、「金木犀」は片耳でしか聴けなくなった。没入したら最後、雑踏の気配がなければ、途端私は世界1人ぼっちなってしまう。

だから決めたのだ。起きない偶然は作るしかないと。
あの人との関係性に名前を付けるにはもう一度会う必要があった「一回遊んだだけのあの子」にならないように。フォロワーという「数字」の中の一人にならないように。

閉じたInstagramを再度開いて閲覧履歴を見た。投稿5分前。閲覧者3人。ホットチャイに口づけて、ため息を押し込む。

<粧し込んだ日にかぎって 君には会えなかった>

思いがけない言葉だった。あまりに今の状況をそのまま映し出した歌詞だったから。驚きがメイク直しの手を止め、後からやって来た焦りが驚きを追い越した。

そういえば、あの日、会話はこう続いたのだ。

「でも偶然ってさ……本当は存在しないんだって」
「どういうことですか?」

私は尋ねた。そういえばあの日もホットチャイを飲んでいた。「偶然なんてないってこと。会うべき人には必然的に会うんだよ」親指をスマホに滑らせながら続ける。「俺、意味分かんない? スピってるって思う?」

いたずらっぽいその笑顔と同じ温度で私も笑ってみたけれど、実際はそうじゃなかった。胸の中のふわふわした期待が固い石ころに変わっていた。自分が「会うべき人」のふるいにかけられるのが怖かった。

忘れてしまいたい。「偶然なんてない」、そんな些細な一言で他人を絶望させてしまえる、万能なあの人を。

「ここにいたんだ」

頭上から突然降る言葉に驚いて、顔を上げる。
そこには若い男が傘の柄を握りしめて立っていた。男は安堵したように深く息をついた。首を軽く前に倒し、雨に濡れた髪を左右に振る。

「遅いよ!」女が立ち上がる。「もう帰ろうと思ってたわ」
「ごめんごめん。このカフェ、こんなに奥まで席があるなんて知らなくて」

男はそう言って、女が座席に置いていた大きな紙袋を肩に掛けた。女は立ち上がりながらポータブル充電器からスマホを取り外す。

「これでも俺かなり急いだんだよ。急に会えるって言うから嬉しくて」
「アハハ。別にたまたま、休みになったから。たまたまね」

彼らは笑い合って手を繋ぎ、テーブルには飲みかけの珈琲だけが残された。

「偶然なんて存在しないんだって」。あの人の声が耳元で反響した、気がした。気がしただけだ。だってもう覚えていない、本当は。どんな声だったか。どんな温度だったか。

<見なくていいよ 見たくないもの全てが他愛もない 邪魔だ愛してるよ>

ラブソングなんていくらでも聴いてきたのに、こんな響きの「愛してるよ」があるなんて知らなかった。こんなにも届かない「愛してるよ」が、叶わない「愛してるよ」が。
落胆は焦燥になって、敵意になって、最初よりも膨らみを増した落胆になった。目的を失くした唇の紅が静かに光っていた。

胸の中の石ころを蹴とばす。マグカップを傾けると白い底が見えた。それでもなおスマホを握りしめて離せない、そんな柔弱で情けない身体を、雨が隠した。

* * *

みくりや佐代子