【短編】ユートピア/Vaundy「napori」

【短編】ユートピア/Vaundy「napori」

彼と彼がキスしているのを見た。

正確にはシルエットで、だ。廊下に張られた窓の向こう側、くもりガラスに輪郭が半分奪われたままの彼らは、そっと音もなく近づいていき、やがてひとつになった。

ああ、こういう影絵あったな。ロールシャッハだっけ。出勤する間際だった私は、日常の何てことのない光景を過ったにすぎないという風に、そのまま階下へ降りるエレベーターへと乗り込んだ。

秋雨前線は次第に北上し、ここのところはずっと雨だった。やっと涼しくなってきたから、とあれやこれや休日に計画していた遊びがパーになるのが、三連続記録を打ち立てていた。

ゆえに私はとても、くさくさしていた。2人で暮らすのがちょうどいいくらいの部屋に、1人で住んでいることがことさら寂しさを膨張させた。時折仲の良い同僚や昔馴染みを呼んで味気ない鍋を囲んだり、コンビニおでんを食べたり、つまみを食べながら映画を観るも、日常生活で蓄えられた寂寥感は消えない。

でも、そうやって生きていくことを選んだのは自分自身だし、1人の領域を守ってしっかり自宅と会社の往復を毎日欠かさない自分を私は褒めるべきだと思う。しかしどうにも、この季節になるとその寂しさというやつは獰猛に牙を剥いてくるらしい。その日の会社帰り、王子駅から線路沿いに帰路を辿っている最中、高校時代の同級生の中で唯一、今も付き合いが続いている腐れ縁の友人にLINEをしてみた。

「さびしい」
「何があった」
「秋だから」
「季節性鬱ってやつなんじゃない」
「正式名称が知りたいんじゃないんだわ」
「じゃあ、何よ」
「週末どっか行こう」
「雨だよ?」
「この際雨でもいい」
それからすぐに、「なんでもいい」とも付け足した。

線路の向かいにある小路のあじさいはとっくに枯れ、連なったこうもりおばけみたいになっていた。6月に来たときは、「インスタ映え」するからとたくさんの人が写真を撮りに訪れていたのに。諸行無常だな。

「あ、じゃあさ、あそこ行こうよ。今インスタで話題になってるやつ」
「またインスタ? 私いまだに使いこなせてないんだけど」
「波にはとりあえず乗っかるスタンス、楽しいよ」
「そうかもしれないけどさ」

インスタといえば、最近たまたま見た知らない人のストーリーズで使われていた曲がここのところ頭を離れずにいた。

〈2人になって 君を待って 思い出したんだ
僕が大人になって 思い出すのは君じゃないかな〉

確かこんな歌詞の、ムーディで気だるい音楽だった気がする。

「屋内だから雨も平気だし、ね、日曜そこ行こう。チケット取っておくから」

彼女はそういう、段取りにおいてのスピーディーさはピカイチだ。メッセージが途絶えてから3分もしないうちに、電子チケットが送られてきた。当日これをQRリーダーにかざせば入場できるらしい。

「すごいなぁ」

どこか上の空な声が、私の声帯からだらしなく吐露される。覇気、みたいな、そういう感じのものが、私には足りないのだろう。

いつも人からもらってばかりだ。愛情も。たとえば真夜中の白湯みたいな、あたたかいものも。そしてそれをおびやかすものに対抗しうる力が、私にはまだない。

それがなんとなく、悔しいと思ってしまうのだった。

* * *

お台場のしけたゲームセンターを取り壊して作られた、そのアートグラフィック体験型展示に入場するまでの時間、彼女と私は他愛のない話をした。仕事の話は互いに避けた。私は真っ先に、自分の住むワンルームの、隣人のことを話題にした。

「それって、付き合ってるってこと?」
「そうなんだと思う……多分」
「どんな感じの人たちなの」
「たまに朝のゴミ捨て場で会うんだけど、なんていうか、2人とも、別に普通の男の人」
「兄弟なんじゃない?」
「そうなのかなぁ。でも、普通ワンルームに兄弟揃って住まなくない?」

彼女は相槌を打った。唇がタピオカみたいにぷるぷるしている。さっき、タピオカドリンクを飲んだせいだろうか。健康的で、かさついてない彼女の唇が好きだ。

「沙紀の部屋番、何号室だっけ」

「44番」
「で、彼らは?」
「45番」
「そっかぁ」

え、なによ。と私は言った。彼女のその問いにはあまり意味がないようだった。隣人、という微量にスパイスのある言葉が気に入ったのだろう。

「彼らのうちのどちらかが、ごみ捨て場に捨ててた本の名前、見ちゃったことがあって」
「なんて本?」
「ヰタ・セクスアリス」
「森鴎外か」

彼女は流暢に唇をふるわせた。まるでとても言い慣れているような口ぶりで。

「よく知ってんね」
「文学部なめんなよ」

形の良い唇を三日月にして笑う彼女に、これ以上の詮索を依頼するのはやめた。本から彼らの人となりを知りたいと思ったが、野暮なことはしたくない。本から覗く人の深部みたいなものに触れる勇気も持てなかったから、私はそこで口を噤んだ。

重くも軽くもない沈黙が流れる。しばらくして入場ゲートが開き、摩訶不思議な非現実世界へと、私たちは誘われたのだった。

『地図はない、順路もない。さ迷い、発見する』

そういったコンセプトで作られただけあって、薄暗い空間の中にはいくつもの分かれ道があり、そのどれもがどこに繋がっているのか分からない。壁に投影されたグラフィックは時間ごとに切り替わるので、最初に来た場所が次に来ると別世界になっていた。極彩色のパレットの中、私たちは自分の身体を彩る光や色に取り込まれ、紛れ、実体をなくしていった。iPhoneの高性能なポートレートモードで撮って、ようやく自分の肉体がちゃんと輪郭を成しているのが確認できた。

はしゃぐ彼女の手を取り、向日葵が咲き乱れる部屋から次の部屋に移ろうとした時、日常のなんてことない光景が、異質な空間に挟まっているのを見た。

いや、どちらなのだろう。異質なのは一体、どちらなのだろう。そのどちらもが正しいのであれば、誰がその世界を守ってくれるのだろう。私はまだ、その力がなくて、彼を、彼らを、守ることができなくて、私はその短いキスを横目で掠め取りながら、

「あ」

と小さな声を出して、そのままぐりん、と星が北極点で円を描くように、角度を変えて彼女のほうを振り向いた。

「行こう」

彼女の手を取る私の手はしっとりと汗ばんでいた。オレンジジュースが飲みたくなり、自販機でおもちゃみたいなサイズのオレンジジュースを買い、一気に飲み干した。彼女は私を見て不思議がった。

「大丈夫?」
「何が?」
「いや、なんかさっき焦ってたから」
「そう? 大丈夫だよ。でも、ちょっと酔ったかも」
「そしたらちょっとここで休んでいこう」

老人と子どもが座っているベンチの端に腰掛け、さっきの光景をリフレインさせる。

あれはまぼろし? いや、違う。あのふたりは、45番のふたりだ。

唇の合わさり方が、あの日見たシルエットと同じだった。顔の傾け方。お互いを最大限まで慮ったキスの仕方。ひっそりとした雰囲気。誰にも見えない、知られないようにしている密やかな感じ。

その時、唐突に分かった。彼らの愛し合い方が好きなのだと。

隣人という関係である以上、身を挺して守ることはできないけど、せめて、彼らがずっと、あのままでいられますように、と私は願った。向日葵になって、ヒガンバナになって、そしてカラフルなワニの間をすり抜けて。

ふたりがどこまでもふたりのままで、生きていけるよう願った。どんな姿にも変身できるし、どのような姿でも美しいのだと思った。その一瞬を見ることができた私は、きっと幸せ者だ。

「私の理想の世界だ、ここ」

「え、そこまで言っちゃう? まぁ、確かに非現実的できれいだけど」

「違うの。これは現実なの。だからきれいなの。そう信じたいな、私は」

ここから遠く離れたイタリアのナポリのような、でも、どうしたって離れられない呪いがかかった窮屈な場所。

そんな場所で彼らは身を寄せ、変わらぬ関係を続け、時に外国のお酒なんかを飲み笑いながら生きている。

〈naporiずっといたいよ ここで見つめあって互いに安堵する
oh right oh right oh right 絡めあっていく
oh right oh right oh right 二人はキスをする〉

イヤフォンから耳に届き始めた音楽を、私にとってのベターライクな隣人と共有する。

「これ、Vaundyの『napori』じゃん」
「うん。私ね、この曲が好きなんだ。この世界にありふれている愛って、こういうことなんじゃないかなと思う」

普遍。

だけど、美しい。

それがいい。

 

今日も、世界は私の両手が届く場所の片隅で光りかがやいている。

* * *

安藤エヌ