【エッセイ】この時代に藤井風の差し出す「優しさ」があったなら
若き才能に頭をぶん殴られるということ
喜びを分かち合い、悲しみに寄り添ってくれるのはいつも音楽だった。
それも年上のシンガーがほとんどで、私は彼らを人生の師のように感じていた。まだ見ぬ様々な色をした感情を持って、「先に経験していたよ」と寄り添うように歌声で包んでくれるからだ。
だから衝撃だった。2020年、藤井風という若きアーティストが出現したのは。
彼の音楽を聴いた時、自分よりも遥か年下の人に年齢を飛び越えて桁違いの才能でぶん殴られるという特別な体験をした。
「音楽が服を着て歩いているようなファンキーな兄ちゃん」は、歌うというよりも全身から音を放つようにして奏でていた。ありあまる才能で天才シンガーと呼ばれながら普段は濃い岡山弁を話すギャップにも射抜かれた。
とりわけ胸に沁みいったのは1stアルバム『HELP EVER HURT NEVER』収録曲、YouTubeでも500万回以上再生されている「優しさ」という楽曲だった。
彼はこう歌う。
‘‘温もりに触れたとき わたしは冷たくて
優しさに触れたとき わたしは小さくて’’
どれほど年をとっても大人は元々子どもである。その証拠に大きな大きな愛を前にすると手も足も出ない。ちっぽけで頼りない子どもに戻っていく。
単なる男女のラブソングだと思えなかったのは歌詞があまりにも普遍的な愛を描いていたから。「人と人」の間に介在する「優しさ」は決して恋愛だけに留まるものではない。
年下の異性に自分の想いを重ねるなんて特異なことだった。そして知った、繊細なメロディーに乗せて心情を代弁されることがこんなにも心地良いことを。
コロナ禍の私たちに最も必要だったもの
新型コロナウイルスの感染拡大によって緊急事態宣言が発令されたこの春、未曾有の事態に置ける私たちはいつだって「正しいかそうじゃないか」を選択させられていた。
インターネットにはいくつもの正義がごろごろと転がっていて、私たちはそれに従ったり反発したりしながら不安な日々を過ごした。
そしてそれは静かに今も続いており、終わりの見えない状況下で心の拠りどころを探している。
かくいう私もそうだ。人が死ぬ、経済が死ぬと混乱する世の中で、足りないものは1つ残らず確保せねばと模索していた。
一体何があれば生活を保てるのだろう。例えばそれは電球? 例えばそれはミネラルウォーター?
Amazonをカートをいっぱいにして日常を保つための全てを満たしたかったし、身勝手な他者の行動をネットで知っては過剰に腹を立てたりした。
そんな不安な日々の中で繰り返し聴いたのがこの「優しさ」だった。
‘‘ちっぽけで空っぽで何も持ってない
優しさに触れるたび わたしは恥ずかしい’’
真っ暗な寝室にごろりと仰向けになりイヤホンから流れてくる「優しさ」を聴く時、じんわりと浮かび上がる答えが体に刻まれていくようだった。
最も大切なものは最も見失いやすい。今日私は一体誰に「優しかった」だろうか?
私たちが今本当に必要なもの。藤井風の差し出す「優しさ」がそれぞれの「正義」を凌駕して、頑なに閉じていた心のひだを溶かしていく。
藤井風の音楽には「希望」が差し込んでいる
とにかく幸運だったのだ。未だ落ち着かない令和の時代、それもこんなに社会が不安定なタイミングで私たちが藤井風に出会えたのは。
先の見えない憂鬱な日々の中でやり場のない不安を抱えてしまった時は藤井風の音楽に触れてみてほしい。
その名のとおりさらりと私たちの傍を横切り、要らぬ気がかりを風に乗せて遠くへ運んでくれる。
‘‘凍えた心が愛に溶けてゆく
花の咲く季節が戻ってくる’’
こんなことを大真面目に言って説得力があるのは彼が本物だから。
花の咲く季節が戻ってくるまで彼は魅せ続けてくれるはずだ。新たな音色を多く携えて。
そうしてまた底抜けの才能にぶん殴られる。私たちはその準備をしていなければいけない。
藤井風の魅力は何よりもこの「未来」ではないだろうか。私たちの期待をどこまでも超えていきそうな未来を見せてくれる。2020年の上半期で多くの失望を経験した私たちはきっと、かたく約束してくれる誰かに出会いたかった。
藤井風は連れていってくれそうなのだ、どこまでも。その証に、この先長く続くであろう彼の活躍の序章に立ち会えたことを多くの人が喜んでいる。
才能の名刺として永く歌い継がれていくだろうこの楽曲。ポップでキャッチーではないが切なさの中に望みを含む、こんな音楽を何と言うんだろう。
細くやわらかい針で刺されるような甘い痛み。そういえばこの心地良さの正体は確かに「優しさ」だったのだ。
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みくりや佐代子
