【エッセイ】チャットモンチー「Last Love Letter」──5年間かけて読み終わったラブレター

【エッセイ】チャットモンチー「Last Love Letter」──5年間かけて読み終わったラブレター

チャットモンチーの「Last Love Letter」という曲の中に‘‘涙は人に見られて初めて輝き出すのです ’’という歌詞がある。

初めてこの曲を聴いた時から、もう軽く5年はこの一文について考えている。最近になって、やっと、ようやく、結論らしきものが出た。

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変わらない作品と、変わっていく人と

作品そのものはなんら変わらないのに、受け手が変化した事で感じ方が大きく変わる、ということは珍しいことではないと思う。

初めて耳にした時はそんなに響かなかったような歌詞が、涙腺を攻撃してくるようになったり、逆に刺さって響いて共鳴しまくっていた歌詞を、1歩引いたところから眺められるようになったり、する。

しかし「Last Love Letter」の歌詞への感じ方は、初めて聴いた時から最近まで、さほど大きく変わらなかった。私が思春期真っ盛りの、意地とプライドを煮凝りにしたような自意識モンスターだった、高校生の頃からである。
自分がその頃から何ら成長していない、とは思いたくない。ていうか、流石にそれはない。多分。

最初に聴いて、私が疑問に感じたのは「人に見られない涙はどうなるのか?」ということだった。輝かないのか?カタチにならないのか?どうなんだろう?

揚げ足取りとも言えるし、言葉の余韻と余白を読めないんですね、と言われればそれまでなのだが。

今よりもさらにさらにさらに未熟だった高校生の頃は、この歌詞を聴いて「1人で泣いてても何も輝かないんですね」とか言って拗ねていたが、徐々に拗ねずに考えられるようになった。うん、やはり少しは成長している。

あなたの涙、わたしの祈りと願い

人は泣く。涙を流す。その涙のうち、リアルタイムで人に見られる涙と見られない涙だったら、見られていない涙の方が多いような気がする。大人になればなるほど、1人で泣くことの方が増えるというか。

‘‘わたしの届かぬあなたへ’’という歌詞も含めて考えると、これは祈り、そして願い、なんじゃないだろうか。

今こそ‘‘わたしの届かぬあなた’’だけど、過去には‘‘あなた’’が流す涙を‘‘わたし’’は見ていたのだと思う。隣にいて、カタチになった涙、輝く涙を舐めとったり拭いたり抱きしめたりしたのだろう。そしてその逆もあったはずだ。‘‘わたし’’が流す涙を‘‘あなた’’が見ていた場面が。

今「わたしの届かぬあなた」になってしまった‘‘あなた’’にかつての‘‘わたし’’のような存在がいて欲しい、という願い。祈り。愛。舞城王太郎曰く、「愛は祈りだ」。これに私も同意する。

作詞した福岡晃子はインタビューで、

「今まで関わってきた人たちに‘‘最後の’’という意味を込めた‘‘Last’’ Love Letter。今いる好きな人に対して幸せにしたいという気持ちを抱いたりできるのは、今まで関わってくれた人たちがいたからで、その人たちに本当に愛を持って感謝できるようになった、それをラブレターにしたいと思った」と話していた。

だから歌い出しは‘‘わたしの知らないところで傷ついてはいませんか?’’なのだ。その感謝の気持ちは、小娘の私でも分からなくはない。

最後までちゃんと読めるようになったら

「Last Love Letter」が収録されている『告白』というアルバムは、部活が続いていく感覚で楽しくやるだけではなく、大人になった現在の自分たちに近いアルバムを作ろう、として作られたアルバムだ。当時の3人は26才前後。

歌詞が真っすぐ聴こえるようになった、受け入れられるようになったということは、自覚はなくとも私も少しずつ大人になっていて、彼女たちと同じ目線になりつつあるということなのかもしれない。

この歌は、「1人で流す涙は輝かない」とかそんな話をしているのではなくて、今は遠くなってしまったあなたへの、わたしの知らないところにいるあなたへの、最後のラブレター、最後の愛と感謝の言葉なのだ。

この曲を、拗ねたような気持ちになりながら、それでも救われる気がして何度も聴いたのは、そういう愛の曲だからだったんだと思う。

というかこんなことを考えなくても、最後にこう歌っているのを聴けばすぐに分かるのに、このフレーズをすんなり受け取れるようになるまで5年もかかった。これが全てだった。

 

‘‘愛のある日々を、栄光の結末を、どうかあなたに あなたに’’

鮭いくら