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過剰な喜劇性で「死」と戯れながら「生」を描く──Weezer『SZNZ:Winter』

By竹下力

Weezerの『SZNZ』シリーズの最終作となるEP『SZNZ:Winter』が12月21日に発売された。このシリーズは、北半球の季節の最初の日(春分、夏至、秋分、冬至)にリリースされた、四季をモチーフにしたコンセプチュアルな4部作。ヴィヴァルディの「四季」といったクラシック音楽やシェイクスピアや神話等に影響を強く受けているという演劇的要素の強い作品群でもある。本作はバンドのフロントマンであるRivers CuomoとSuzy Shinn(Fall Out Boy/Panic! At The Disco)とJames Flannigan(Carly Rae Jepsen/Black Eyed Peas)がプロデュースしており、彼らの大好きなメタルやパワーポップ的な曲もあるが、複雑な構成や多彩な楽器を使った、彼ららしく同時に彼らの新機軸とも言える素晴らしい作品となった。このレビューでは、シリーズ最終作の『SZNZ:Winter』を取り上げたい。

「こいつら最高にイケてない」ということがカッコイイ

多作な作家である。ただ彼らの活動を眺めていればそんな風になるとは思えなかった。1stアルバム『Weezer』(1994年、『Blue Album』とも呼ばれている)を聴いた時には衝撃を受けた。日本版は1995年に発売されたけれど(Microsoft Windows 95の発売の数ヶ月前だった)、それを手に入れた童貞ちょいオタクマインド全開の高校生の私にとって、「こいつら最高にイケてない」ということがカッコイイと思えた。それでも、青色の背景に屈託のない表情のメンバーの映ったなんでもない写真を眺めていると、なんだか危ういティーン特有の感じがして、いつ消えてもおかしくない雰囲気があった。

2ndアルバム『Pinkerton』(1996)は、元ネタがオペラの『蝶々夫人』だったし、悲壮感漂うアルバムを聴き通すと、最後は蝶々さんのように死んでしまうとさえ思えた。ある意味、本当にそうなってしまって、フロントマンであるRivers Cuomoはハーバード大学に進学するためにボストンに引っ越したり、メンバーの脱退を繰り返して、バンドメンバー皆で殴り合って、漫画『あしたのジョー』の矢吹丈みたいに真っ白に燃え尽きてしまったように見えた。今でこそ笑い話にできそうだけど、彼らの深刻なアイデンティティ・クライシスな感じを遠い日本からもアリアリと感じ取ることができた。なんというか、あの時代のバンドは皆青臭かったと言えるのかもしれないし、リスナーであった私も青臭かったのだと思い知らされる。

そこからRivers Cuomoの生活が安定すると、一気呵成に作品を作り続ける吹っ切れぶりを見せるようになった。自身の感情の起伏に左右されやすい多感なバンドが大人になったイメージを受けた。

Weezerは寅さんである

私は勝手に彼らのことを映画『男はつらいよ』シリーズの寅さんだと思っている。フーテンの寅さんが旅に出て、地元の柴又に戻ってきて、誰かに恋をして、失恋して立ち直って旅に出るなんて、Weezerそのものだと思った。それを何10年と続けていることも映画と同様だった。Weezerに関しては2022年だけで4枚もアルバムを出すような表現欲を垣間見たら、彼らがヨボヨボになって、ギターを杖代わりにトボトボ歩きながらツアーをしているのを眺めるのもなかなか魅力的だと感じさせてくれる。こうなったら彼らが終わりを迎えるまで、まさに「死」するまで付き合いたいと感じさせてくれる親近感も湧くようになった。

今作のシリーズを聴いていると、つくづく日本人的な時間意識を感じさせる。春が来て桜が咲き、秋が来て葉が散るといった、歳時記的な説話法を用いている気がするのだ。それは俳句や短歌の世界に近いかもしれない。シェイクスピアやヴィヴァルディの作品からインスパイアされたコンセプトでガチガチに固められている訳でなく、感覚の赴くままに作品を作ったという趣は極めて日本的で、東洋思想的と言ってもいいかもしれない。それは今シリーズに限ったことではなく、彼らのアルバムは初期の段階から物語を歳時記的な話法で伝えていたと思う。突き詰めれば「死」を物語化していたのではないだろうか。例えば、『男はつらいよ 寅次郎恋歌』(1971)では妹のさくらの旦那である博の母親が亡くなった葬式のシーンで、いきなり寅さんが現れて、場違いなことを言ったりやったりするのだが、それと同じなのだ。

要はWeezerというバンドは、喜劇性に振れることで、物語のクライマックスに至るまでに「死」という悲劇を極端に顕在化してリスナーに内在させるのだ。そういう意味で、「死」を過激に手玉に取るように扱ってきたラディカルな作家でもあると思う。「死」とは誰かが死ぬという意味だけでなく、感情、表情、行為、時間、空間、時代、歴史、文化、そういった全ての総和においての「死」と戯れながら、強張った笑顔で、世界の理を明らかにしようとしていたのだ。何かを終わらせることで始めようとしたバンドなのだ。

現代的な手法を用いて歴史と巡り合っていく

「I Want A Dog」(M1)のギターのイントロを聴いた瞬間に、エリオット・スミスみたいだと思ったけれど、〈犬になりたい〉とか〈間違った選択をしてしまった〉といった悲しみを纏った被虐的な表現は、確かに彼に似ている気がするし、Weezerらしいとも思う。よく考えたら、エリオット・スミスもWeezerも同じ位相で聴いていた記憶が蘇る。今作に通じる原罪を抱えている運命的な人間の生存の悲しみを描き、それに対する贖罪への願いはまさにシェイクスピアだろうし、ヴィヴァルディや寅さんにだってある。

その証拠に、曲の中間で、爆笑を誘うようなキラキラしたギター・ソロの過剰な喜劇性を感じれば余計にその想いが強くなる。「Iambic Pentameter」(M2)は、シェイクスピアが愛した言語のリズムの呼称で、「弱強五歩格」のことだろう。言葉の発音の強弱を交互に5回繰り返して一行の台詞を形作る手法だが、サウンドや歌詞にしろ強弱をつける方法論は、オルタナティヴ・ロックだってそうだし、グランジだってそうだったと思う。いわば彼らは、ここに来て「時代」ではなく「歴史」と巡り合ったということだろう。グランジ的なディストーションのギターやメタルなリフも、曲間に登場するヴァイオリンも、彼らのコーラスの〈この気持ちを説明することはできない〉といった歌詞も、結局はハムレットの「To be, or not to be, that is the question.」という有名な「訳もなく意味があるな」的な感じの台詞に通じる気がするし、歌詞の〈Gordian Knot〉は、シェイクスピアの『ヘンリー五世』からだろう。このシリーズ特有の「歴史」に対するオマージュというよりもパロディ的な引用の仕方によって、歴史を担保にした重みのある喜劇性を強調し、それによって悲劇性が更に高まるといった効果を生んでいると思う。

「Basketball」(M3)は、彼らの名曲「Buddy Holly」のようなギターの感触に、〈僕は自分でバスケットボールを自分の腕に投げ込むことができない/僕のためにそこにいて〉という魔法の奇跡を求める「泣き虫ロック」と言われていた頃の彼らの自己パロディーにも感じる。それは一種の感覚の死に繋がる。新鮮な喜びといったものを断然し、ひたすらパロディであるが故に批評性を表出させていく。「Sheraton Commander」(M4)は、悲劇的でノスタルジックさを醸しながら、朗々とした歌は軍隊歩行的なリズムによって、オペラ的な楽曲になっている。そこでシェラトン・コマンダー・ホテルのことが歌われる。ハーバード大学に近いし、歌詞に登場するアメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンがそこに滞在したことも有名だけど、ボストン時代のRivers Cuomoとアメリカの歴史が接合されて物語化された曲で、壮大でありながらどこにでもいる「私」の抱える悲しみを歌った親近感のある曲になっている。

「Dark Enough to See the Stars」(M5)は、クリスマスソングのように聴こえるけれど、そこからバグパイプのような音が鳴り響いて〈僕は1人で死にたくない〉と歌われる様は、『クリスマス・キャロル』のスクルージの孤独な心の有り様を描いているように思わせる…そんな所も秀逸だと思う。オマージュ、パロディ、引用といった現代的な手法を用いて歴史と巡り合っていく様は圧巻とも言えるし、同時に極めて文学的でもある。

「The One That Got Away」(M6)は、〈君がいなくて寂しい/君のことばかり考えている〉という歌詞は、ここでも彼らの大ヒット曲『Weezer』(2016年、『White Album』と呼ばれている)の「California Kids」(M1)の明るさへの対句になっているようだし、自身の過去の作品をレファレンスしながら彼らしか描けない物語を全面に打ち出して、いつだって悲しいかもしれないけれど笑いながら今を精一杯生きることを訴えている。「The Deep and Dreamless Sleep」(M7)は、パンキッシュな曲で、途中でストリングスが入ってくるケルト的な楽曲だけれど、タイトル通り「夢のない深い眠り」に誘う。ここで『SZNZ: Spring』のファーストナンバー「Opening Night」で〈シェイクスピアが幸せにしてくれる〉と歌っていた、舞台の幕開き初日のワクワクするような胸踊る夜が過ぎ去って、千秋楽を迎えた寂しさを告げる。Weezer劇団による舞台『SZNZ』は清々しく終わったのだ。

今シリーズでの彼らは、寅さんやシェイクスピアと同じように、血縁との繋がりや、身近な相手との関係の悲喜劇をドラマティックに歌っていて、「ホームドラマ」とも言えると思う。そこに登場してくるのは、ほかでもない、なんら取り柄のない、「あなた」であり「私」である。いわば、コンプレックスやルサンチマンとも無縁に生きようと必死に頑張っている市井の人々を活写していると思う。

彼らの初期作には、危うさと共に共同体に属せないミスフィットな誰かの壊れそうな内面を卓抜に描いていることもあったが、やがてそれはどこにでもいる「私」と「あなた」の距離に主眼を置くようになった。その距離の媒介になっているのは「生」と「死」であり、本作において、「死」を突出させるために、極めて喜劇的に「生」を演じることによって、我々が生きていることと同時に死んでいることを教えてくれる。だからこそ生きることの素晴らしさが際立ってくる。そんな人間の根源を歌ったシリーズの最終章に相応しい今作は、Weezerが紡いだWeezerでしか作り得ない聖典と呼ぶべき、美しい作品となっている。

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RELEASE

Weezer『SZNZ:Winter』

リリース:2022/12/21
レーベル:WARNER MUSIC JAPAN

トラックリスト:
01. I Want A Dog
02. Iambic Pentameter
03. Basketball
04. Sheraton Commander
05. Dark Enough to See the Stars
06. The One That Got Away
07. The Deep and Dreamless Sleep

writer

竹下力のプロフィール画像
竹下力

1978年6月27日生まれ、静岡県浜松市出身。出版社勤務を経て演劇・音楽系フリーライターに。90年代半ばに『MTV japan』に出会い音楽に目覚める。オアシス、ブラー、レディオヘッド、サウンドガーデンやスマッシング・パンプキンズとブリット・ポップやオルタナティヴ・ロックに洗礼を受け、インダストリアル・ロックにハマり、NINE INCH NAILSの虜になる。BOREDOMSのEYEと七尾旅人がマイヒーロー。

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ポストパンクを主に聴いています。毎年苗場で音楽と共に焼死。クラフトビール好きが興じてブルワリー取材を行うこともしばしば。なんでもご用命ください。

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