私を構成する9枚【對馬拓編】
#私を構成する9枚──その文言通り自身の音楽遍歴を語る上では決して切り離せない音楽作品を9枚選ぶハッシュタグ。musitでは書き手自身を掘り下げるべく個人の音楽的嗜好に迫る企画としてお送りする。弊メディアのライターたちがどのような遍歴を辿ってきたのか覗いてみてほしい。
今回は、musit編集部、及びシューゲイザーのメディア「Sleep like a pillow」の主宰としても活動する、對馬拓(ex.おすしたべいこ)の9枚を紹介。
①Base Ball Bear『(WHAT IS THE) LOVE & POP?』(2009)

人生が変わった瞬間──いわば、こうしてライターの道を進むことになったそもそものきっかけを遡るとこのアルバムに辿り着く。それまで流行のJ-POPばかり聴いていた自分がバンド・ミュージックに傾倒し、周辺を深掘りする機会を与えてくれたのがBase Ball Bearだった。
2009年。充実した学生生活を謳歌したい、でも実際は急速に色めきだした自意識をどうにか誤魔化すだけで息切れしていた高校2年生という名の地獄。青春時代のキラキラした部分を描いた先行シングルをダークなアルバム曲で相殺するように構成されたこのアルバムは、そんな自分の心象風景そのものだった。
今思えば当時の僕は「世界に対してどういう態度をとるべきか」ということを強烈に意識しはじめていて、もしかするとそれはベボベも同じだったのかもしれない。彼らはその後、2部作の「3.5thアルバム」でバンドの根源的な部分を見つめ直すことになる。
②ASIAN KUNG-FU GENERATION『ファンクラブ』(2006)

「リライト」のスマッシュヒットをリアルタイムで体感しなかったのは、もしかするとラッキーだったのかもしれない。その分フラットに聴けたし、どちらかといえばそもそもアジカンの入り口は中村佑介の絵だった。
やはり2009年がターニングポイントだったように思う。落ちこぼれて雑魚キャラに成り果てた僕がこのアルバムに惹かれたのは、ごく自然な結果だった。世間の目を避けて自意識の迷路に潜っていくような雰囲気に、異様な親近感を抱いたことを覚えている。世界から分断される心の悲痛な叫びが歌われる「ワールドアパート」は、かつての自分にとって「アンセム」だった。独特な拍子で冒頭を飾る「暗号のワルツ」、プログレ的な曲展開を見せる「センスレス」、ドビュッシーを引用したその名も「月光」など、ギター・ロックの範疇で様々な趣向を凝らした実験精神が垣間見える楽曲群にも心を踊らされた。
③サカナクション『kikUUiki』(2010)

実は初めて「ライブ」というものに足を運んだのも2009年で、そのイベントがサカナクションとの邂逅だった。当時ベボベに熱を上げていたこともあり初めはそれほど興味をそそられなかったが、「セントレイ」や「ネイティブダンサー」といった楽曲が放つ強い磁場に抗うことはできなかった。

いよいよ気運が高まっていったのは「アルクアラウンド」がリリースされた頃。あの一発撮りのMVが示すように、当時からヴィジュアル面でも強いこだわりを持っていた彼らはホームページのデザインも相当凝っており、よく覗きに行っていた。そして初めてリアルタイムで聴くアルバムとなった『kikUUiki』。期待値を超えるものだったし、何より「目が明く藍色」のMVを観た時の衝撃は忘れない。
後に山口一郎の出身地である小樽の大学に通うことになるのは、第1志望ではなかった点も含め、どこか不思議な縁を感じてしまう。
④XTC『Drums & Wires』(1979)

初めて彼らの名を目にしたのは、『(WHAT IS THE) LOVE & POP?』リリース時のフライヤーだった。そこにはPOLYSICSのハヤシヒロユキがXTCの作品群を挙げてベボベの新作を形容したコメントが寄せられていた。2年後、浪人生になった僕はその記憶を辿るように札幌駅のHMVでリマスターの廉価盤を少しずつ買い揃え、受験勉強のお供にした。

特に心を掴まれたアルバムは『Drums & Wires』だった。ベボベがライブのSEとして使用する「Making Plans For Nigel」から幕を開け、フランジャーのきいたドラム、ヘンテコなフレーズを連発するギター、頓狂なヴォーカル、そして隙間だらけのアレンジが駆け抜ける。新鮮だった。初期のハイテンションなニューウェーブ・パンクからアンディ・パートリッジの職人気質が見え隠れする過渡期の作品というのも、バンドの変遷を捉えたドキュメンタリーのようで僕を惹きつけた。
⑤ナンバーガール『SAPPUKEI』(2000)

ナンバーガールも灰色の浪人時代を彩ってくれたバンドだった。ベボベが多大な影響を受けた存在として認知しつつも聴かずにいたが、札幌駅のHMV(あの場所は僕にとって聖地だ)でベスト盤を偶然見つけて衝動買いして2011年の夏は聴き狂った。オリジナル・アルバムもすぐに揃えた。予備校の行き帰り、イヤホンを耳に突っこみ爆音で流しながら自転車をかっ飛ばした日々が懐かしい(良い子は真似しないでね)。
やはり僕は過渡期の作品に弱い。『SAPPUKEI』は初期の歪な衝動と後期の和風テイストを思わせるサウンドが混在しており様々な側面を楽しめる。キャリア随一の殺伐とした音像も、震災で沈み込んだ社会全体の空気感や携帯電話(ガラケー)を解約し交友関係を断って孤独な浪人生活を過ごしていた自分に、それはそれは恐ろしいほど似合っていた。
そんなバンドが後に奇跡の復活を遂げ、その姿をライブで目撃することになるとは──。
⑥Galileo Galilei『PORTAL』(2012)

彼らの音楽をデビュー当時から聴いていた身として、海外のインディーロックへ接近した本作のサウンドには随分と驚かされた。同時に、これこそが彼らの進むべき道なのだろうと意外にも素直に受け入れることもできた。変化していく欲求に忠実な彼らの姿勢は同世代の人間として尊敬に値した。
しかし、その作風は当時の日本のメジャー・シーンとしては早熟で正当な評価を受けていなかった気がする。ただ、少なくとも僕に新たな風を吹き込んだ作品なのは事実だ。ドリームポップ・ナンバー「星を落とす」など後の嗜好を暗示する楽曲が収録されているのも、今思えば象徴的。
“起きて苛立ちだらけの夢から覚めよう ”──多くの場合<夢から覚めること>は否定的な要素だが、彼らはその常識をいきなりひっくり返す。それは音楽的に次なる局面へ突入したことを示していたし、リスナー側にも新たな体験への入り口(=PORTAL)が開かれた瞬間でもあったのだ。
⑦My Bloody Valentine『Loveless』(1991)

マイブラの存在を認知したのは確か2013年に『m b v』がリリースされた少し後だったが、当時の彼女が『Loveless』を貸してくれるまでバンド名は疎かシューゲイザーという言葉すら知らなかった。ところが、あの抽象画のような紅いジャケットを手にしたことで僕は静かに狂っていく。耳に流れ込んできたのはそれまで全く聴いたことのない、実に形容しがたい音楽だった。
初めから彼らのサウンドに魅了されたわけではなく、それを「美しいもの」と認識するまで少しばかり時間を要した。しかし、制作背景や歴史的意義、そしてケヴィン・シールズという人間を知れば知るほど、僕は<恋>に落ちていった。その果てがこの通り、マイブラのCDやレコードを何枚も買い込みシューゲイザーのメディアを立ち上げる始末である。
2018年に来日した際、豊洲PIT公演とソニマニの両日とも足を運んだ。あのライブは間違いなく人生最高の体験だったが、それと同じくらい会場で熱狂する聴衆の多さにも感動した。ラヴレス──いや、愛がないなんてもう言わせない。
⑧Syrup16g『HELL-SEE』(2003)

彼らを聴き始めたのは再結成がアナウンスされた2014年。大学3年生だった僕は桑園の自動車学校に通っていた。ある日の講義中あろうことか一番前の席で居眠りしてしまい、教官に厳しい調子で「次はないですよ」と忠告されたことがある。そりゃそうだ運転免許だもの。大勢の前で恥を晒してかなり落ち込んだが、そんな日の帰りもSyrup16gは優しかった。
五十嵐隆という男はどうしてこうも僕らを強く惹きつけるのだろう。執拗なまでのシニシズムと徹底的なリアリズムに貫かれた言葉。内なる慟哭を淡々と、しかし時には苦しく激しく表出させる歌唱。ざらざらした砂のように肌を傷つけたり、あるいは水のように優しく潤すギター。そして『HELL-SEE』とかいう、ふざけちらしたタイトル。壮大なギャグのようであり、まごうことなき真理のようでもある。
ああそうか──真っ赤な風景にぽつねんと佇む羊。睡魔に勝てない僕にちょうど良いじゃないか。
⑨羊文学『トンネルを抜けたら』(2017)

羊文学との出会いはここ数年の音楽体験の中でも特に鮮烈だった。このデビューEPのリリース当時は早耳の好事家だけが熱心に聴いていた印象だったが、その圧倒的な求心力で作品やライブごとに凄まじい勢いで支持を拡大する過程を目の当たりにした。
2018年、転職を機に上京して初めて行ったライブハウスは下北沢DaisyBarだった。目当てはもちろん羊文学が出演する企画だ。終演後の物販スペースにいた塩塚モエカは、華奢で、ふわっとしていて、でもどこか強い芯があった。勇気を出して話しかけ、その際にもらったメンバー全員のサインは大切に保管している。
生きることは深い山あいの道を進むようなもので、いくつものトンネルが用意されている。1つ抜ければ次の入り口が待っていて、それをどうにか抜けて一息ついてもまた次の闇にいつの間にか呑まれていく。僕は今トンネルの中だろうか。あるいは意外に出口はすぐそこなのかもしれない。
對馬拓

