私を構成する9枚【翳目編】

私を構成する9枚【翳目編】

#私を構成する9枚--その文言通り自身の音楽遍歴を語る上では決して切り離せない音楽作品を9枚選ぶハッシュタグ。musitでは書き手自身を掘り下げるべく個人の音楽的嗜好に迫る企画としてお送りする。弊メディアのライターたちがどのような遍歴を辿ってきたのか覗いてみてほしい。

今回は、musit編集部、及び文筆家たちの架空アパート「コーポ湊鼠」でも執筆活動を行う、翳目の9枚を紹介。

①PELICAN FANCLUB『PELICAN FANCLUB』(2015)

PELICAN FANCLUBと出会ったのは、今から6年前の夏だった。

茹だるような熱気が立ち込める部屋で、本作のリードトラック「Dali」のMVを再生する。赤黒い画面の中で演奏したり、手遊びをしたりする彼らは、人であるはずなのに美術品のようにも思えた。エンドウはのちのインタビューで、この頃の制作スタイルについて「音楽を芸術と捉えて制作していた」と振り返っているが、彼の言葉に相違はない。哲学的問答やエンドウ自身の思想が綴られた楽曲は、聴き手に対して様々なアングルから問いを投げかけるようで、当時の私にとってはまこと新鮮な音楽体験となったのだ。

同年の秋、初めて彼らのライブを観た。場所は千葉LOOKだったと思う。当時の若手バンドが鳴らすどの音よりも繊細で、狂気的で、心地良い浮遊感にただ感嘆とした。あの時得た刺激が今も私を潤していて、今日日私は彼らのことを愛している。

②BUMP OF CHICKEN『ユグドラシル』(2004)

小学2年生の頃、6つ年の離れた兄の部屋で流れる『jupiter』を障子越しに聴いていたのが私の音楽における原体験である。学年が上がる度に兄の部屋から新譜を持ち出し、兄がバンプを聴かなくなったタイミングでCDを全て借りパクした。

もちろん『jupiter』も当時の国内ロックシーンにおいては革命、ともいうべき素晴らしい作品であることは明記したい。が、ここでは『ユグドラシル』を構成する9枚の1つとして挙げさせてほしい。
本作に収録されている楽曲、及びヴォーカル・藤原の歌声は、例えるならばランタンに似ている。凍え切った身体をそっと温め、橙色の光で照らしてくれる。乗り越えられそうにないと思っていた壁を、共に壊してくれるから優しかったのだ。

‘‘これが僕の望んだ世界だ そして今も歩き続ける’’

「ロストマン」で歌われるこのフレーズに、もう15年近くも世話になっている。今ここで根を張っている事実が、私の望んでいた全てである。

③ハヌマーン『World’s System Kitchen』(2009)

10代の後半、腐れ縁の友人が「お前は好きだと思うから聴け」と言って勝手にPCへ取り込まれたのがハヌマーンだった。私はこの手の強制力が正直嫌いではない。自分の好みを把握したうえでのセレクトには愛があるからだ。彼にはこの場を借りて謝辞を述べたい。

彼との縁がなければ出会うことがなかったであろうハヌマーンだが、これが面白いほどに私の心を射止めたのだから、やはり持つべきものは友人である。引っ込み思案だった学生時代、教室にも家にも居場所がなかった。机に突っ伏して、「トラベルプランナー」の歌詞よろしく、両腕をだらしなく伸ばしながら‘‘行けもしない旅行の計画を立てて笑う’’ような毎日だったのだ。

「だった」と記述はしてみるものの、社会に出ても私は変わっていない。狭いワンルームで、いつかはやってやる、と発泡酒を呻りながら1人零すような日々が続いている。‘‘部屋で俺、思想犯’’である。

④死んだ僕の彼女『ixtab』(2010)

鬱屈とした精神状態が続く、不安定な高校時代だった。2次募集で入学した高校は頭の悪い男女の溜まり場、まだマトモな生徒が掻き集められた「1組」に在籍するも、内向的な性格が裏目に出て、友人と呼べるのは片手で数えられる程度だった。

死んだ僕の彼女とは、そんな陰鬱とした高校生活を送る中で出会った。梅雨明けの時候、若干湿っぽさの残る空気に入り込む乾いたサウンドと、ひんやりとしたツインヴォーカルに手招きをされたような気がしたのだ。授業中、居眠りが習慣だった私が教室の窓から見ていたプールサイド。灼熱の太陽の下、水面に映る自分の姿を見ている--否、見せつけられているようにも思えた。

シューゲイザーと呼ばれるジャンルに彼らが当たることを知ったのは、それよりもっと後の話。活動再開後、高円寺HIGHで観た彼らのパフォーマンスは息をするのも忘れるほどであった。その日受け取ったセットリストは今も大事に残してある。本作は、這うように生きていた高校時代を肯定してくれた、切っても切り離せない作品なのだ。

⑤THE NOVEMBERS『picnic』(2008)

「愛」について考える時、この作品を真っ先に思い浮かべる。愛には様々な形がある。loveやlike、もちろんそれ以外にも。
では、本作における「愛」とは何か。それは‘‘かけ違えたボタン’’であり‘‘崩れ落ちたあなたの残骸’’である。

本作はアグレッシヴな方向性に振り切った「こわれる」「白痴」「僕らの悲鳴」といった楽曲群と、甘やかで耽美な「アマレット」「アイラブユー」などの楽曲群の分かりやすい2部構成となっている点が特徴的だ。しかしあえてくっきりとした線引きを施し、夢と現実の間で藻掻くことがないようにしている点もまた、本作における「愛」だと感じている。

話は少し逸れるが、以前彼らのライブに足を運んだ際、小林のMC中にどこからともなく「パパ、頑張って!」と子供の声が降ってきた。その日の公演の終了後、小林がTwitterで「歌手でもあり、パパでもある」と呟いてたのを見、それもまた彼が提示する「愛」なのだと1人思い返し頷きながら、今これを打っている。

⑥the cabs『再生の風景』(2013)

本作のリードトラック「anschluss」のMVは、私の故郷である福生市(の、国道16号沿い)で撮影されている。
古き良きという言葉がよく似合う、アメリカンテイストが織り込まれた古着屋にセレクトショップ、そして地上展示された大型航空機!--色褪せたフィルム映像の中で見せられるそれらは、福生という街を象徴するには十分な要素だ。

しかしなぜ「anschluss」のMVがこんな辺鄙な街で撮影されたのだろう?詳細は分からないが、高橋のソングライティングの節々に見られるドラマチックなフレーズは、福生という独特な街の風景と些かリンクする。

‘‘絵画の海に溺れていく 僕らいつも間違いをした’’
‘‘花のように生きられたら きっと素晴らしいこと’’

様々な国籍の人々が同じ街で生活を営む光景を、ドラマチックと呼ばずして何と言うのか。私にとっての『再生の風景』とは、本作であり、故郷である。

⑦挫・人間『もょもと』(2017)

初めてライブを観た際の衝撃をこんなにも鮮明に憶えているバンドは、正直片手で数えられるほどしかいない。彼らの第一印象は「怖い」の一言に尽きるものだった。

…という半分冗談みたいなエピソードはさておき、本作について私個人の解釈をしたためたい。3枚目のフルアルバムとしてリリースされた本作だが、内容は相も変わらず苦しそうである。どうにもならない自己への強い嫌悪と、それでも夢みがちな日本男児の淡い純情な感情。「明日、俺はAxSxEになる……」はタイトルからその匂いを強烈に感じさせる。

他方、私が彼らを普段愛聴しているジャンルとは別枠で好んでいる理由の1つに、下川リオが綴る詞の節々に煌めきを感じる、というのがある。それは本作のリードトラック「チャーハンたべたい」で特に顕著だ。散々‘‘チャーハンたべたい’’と駄々を捏ねている隙間に入る‘‘君の恋も夜をたべてそだつ’’なんて、もうこちらが惨敗である。「怖い」から入った音楽に、今こんなにも胸をときめかせられるとは。

⑧大森靖子『洗脳』(2014)

未成年の頃から成人男性との交際が続いた私にとって、本作とは非常に相性が良かった。あの頃は多分、年上のダメな男に好かれては縁を切る一連の出来事を、コンビニでちょっと高いアイスを買って帰るぐらいの感覚にしか思っていなかったのだと思う。

「恋は罪悪」と言い遺したのは夏目漱石だったが、確かに恋とは有害な刺激物である。知覚過敏待ったなし。時間を掛けて脳が溶けていくのを感じながら、近付いたり離れたりを繰り返す。17歳の子供が成人男性を狙うのはあまりにリスキーだと分かっていながら、当時恋焦がれたその人へ向けた好意は「子供じゃないもん17」の歌詞そのものだった。

当時の自分からしてみれば、あり得ないと罵倒されそうなほどに平凡な日々が続いている。仕事が恋人、とまではいかないが精を出し、休日は気に入りの服や音楽に時間と金銭を費やす毎日だ。溶けたアイスは元に戻らない。リアルなスリルが好きだった。甘くとろける秘密の時間は、あの頃だけのものだったのだ。

⑨People In The Box『Family Record』(2010)

「世界旅行」をテーマに制作されたアルバム。海外旅行が趣味だった母親と違い、生まれてこの方海を渡った経験がないので、国名や観光名所が名付けられたタイトルを見てもピンと来ないというのが正直な所。
しかし「東京」から始まって「どこでもないところ」へ行き着く、全12ヶ所を巡るツアーは壮大だ。とても1回では回りきれないだろうが、音楽は1度きりのものではない。何度でも繰り返し再生できる体験が、今日まで私を生かしてくれているのだ。

希死念慮に苛まれていた頃から抜け出せたのは、‘‘君が最初に笑う理由を見せて’’と、波多野が手を伸べてくれたからだ。加えて‘‘まだまだ生きなさい’’とも伝えてくれた。


舞台だろうが何だろうが、今ここが主戦場である。‘‘気を失うほど楽しいのがいいね’’--今は彼と同じように、私もそう思っている。

翳目