アイドルユニット・じゅじゅ、卒業を前に手にするのは「愛と呪いに満ちた音楽の花束」

アイドルユニット・じゅじゅ、卒業を前に手にするのは「愛と呪いに満ちた音楽の花束」

2014年3月より活動してきたアイドルユニット・じゅじゅ。「呪い」というキーワードをコンセプトに嫉妬や妬みなどの負の感情をダークでゴシックな世界観で表現してきた、ねう、みおり、ゆらね、ちゅん。しかし、昨年より重ねてきた協議の結果、3月27日に行われるラワンマンをもって現体制終了、メンバー全員の卒業が決まった。

8年間にわたりアイドルシーンを魅了し続けたじゅじゅ。彼女たちが抱き続けてきた、「呪い」という極めて斬新なスピリットは一体何だったのか。3月27日のラスト・ワンマン先駆けて、彼女たちの財産ともとれる歴史を振り返ると共に、その足取りを追い続けてきた筆者の視点から、改めて「じゅじゅ」という稀有な存在が放つ魅力をひもといていきたい。

じゅじゅが放つ「呪い」とは

まず本題に入る前に、昨今の流れとして音楽や映画をはじめとした、エンターテイメントのトレンドとして「ダークさ」が一つのキーワードとなっている点を押さえておきたい。分かりやすく例をいえば映画・アニメ共に現在熱狂的な人気を集めている「呪術廻戦」や、若者の、またはパンデミック下において塞ぎ込まれた人々の精神性を代弁したと当時18歳の女性シンガー・Adoの「うっせえわ」など、「明るく順風満帆なだけではない、密かな世の不条理の影を根底に感じさせる」作品に強く惹かれる大衆性のようなものが構築され始めているように思う。

世間一般の視点として、「アイドル」という言葉から想起される像というのは、パステルカラーや原色の衣装を纏った元気で明るく力強い彼・または彼女たちだろう。しかし「呪い」をテーマにしたじゅじゅのメンバーが纏うのは、繊細なレースがあしらわれたモノクロのゴシック調のミニドレスと憂い漂う空気感なのである。時折見せる品格と物寂しさが滲む佇まいは、聖女そのものだ。パフォーマンスの一つひとつがハイクオリティで、コロナ禍以降ファンによる声出しが禁止になり、観客からの音が消えてしまってからは、ペンライトの光がなければここがアイドル現場であるということを忘れ、何かの舞台かと思い違えてしまいそうな程に完成度の高さを感じる。

じゅじゅの驚くべきところは、その一つのコンセプトが歴史を跨いでも継承され続けているところだ。もちろんオリジナル・メンバーのねう、しらいの2人から始まった、8年という長い時間の中での体制変更によって、呪いをベースにしつつもコンセプトの微妙な差異は確かにある。ただ、じゅじゅの根底にある特有の空気感は変わっていない。そしてそれは、一般的な「病み系アイドル」とは少し異なっている。

以下はじゅじゅの曲の中でも特に人気を集めるナンバーidoll」からの引用である。

‘‘ある日ネットでブスと言われ エゴサして心ボロボロ
自分の居場所見当たらなくて ベッドで一日過ごす
なんでなんでなんでなんなんで
なんでなんでなんでどーして
なんでなんでなんでなんなんで
どーしてこうなるの?

あー 消えたい。’’

一見すると理不尽な誹謗中傷に傷つくやるせなさを歌った曲に見えるが、最後まで曲を聴いてみると聴き手の印象はだいぶ変わることだろう。

‘‘誰かのせいにしちゃいたい にげてにげて閉じこもっちゃって
否定・拒絶 LINEブロック 何も見たくない
なんでなんでなんでなんなんで
なんでなんでなんでどーして
なんでなんでなんでなんなんで どーしてこうなるの?
今に 今に 見てろよ’’

拒絶の果ての自責、そして復讐心へ。「可愛らしく病んで終わり」なじゅじゅではない。そもそも呪い、とは他者への怨念や復讐心あってのものだ。そしてそれは、この決して明るいだけではない現実を生きる我々にも共通する。このファンタジックな歌詞の中に垣間見える妙なリアリティは、我々がじゅじゅの「呪い」に囚われてしまう理由を浮き彫りにする重要なファクターとなる。

ちなみに、上記の歌詞をもとに1つ付け加えるとすれば、努力家な彼女たちはファンの反応を知るべくSNSを「見て」いる。ファンとの距離が比較的近い「ライブアイドル」にあまり馴染みがない方には想像しにくいかもしれないが、「特典会」といういわゆるチェキを撮る場にてのファンとの交流のほか、個人差はあれどハッシュタグやエゴサーチからファンのSNSアカウントを把握していることも多い。何もすべてそのまま安直に歌詞として読み取れることはないが、この点を踏まえ、改めて考えてみるとidoll」の重みというものがまた違って捉えられるのではないか。歌詞に散りばめられた「飾らない等身大の痛み」は、実は我々が既に心の中に抱いたことのある黒々とした曇りでもある。

ステージ入場時、彼女たちの楽曲「祈り」(2018年リリースの3rdアルバム『Melian』収録)がSEで流れれば、その一挙一動にファンは息を呑み、たちまちじゅじゅの世界に引き込まれてしまう。月明かりのようなスポットの下で指の先や揺れるレースの繊細な動きに至るまで、徹底的にコンセプトに沿った「ダークさ」の静謐な渦で踊る4体の美しい人形。しかし、その夢とうつつが曖昧になる幻想的なステージで歌い上げられるのは、現代の若者が抱える苦悩という呪いの核そのものであり、重く歪に響く愛でもあるのだ。

更に続く特典会で彼女たちは、気さくで可愛らしいファン想いのアイドルへと変幻自在にその姿を変える。そういったギャップもまた、じゅじゅが多くのファンに愛されながら活動を続けてきたことの所以であることは間違いない。

非実在性少女は永遠に生きる

じゅじゅの魅力は観る人を引き込む4人のパフォーマンス力だけに止まらない。嫉妬や妬み、インターネットの闇に憎悪を孕んだ愛情といったモチーフが印象的な曲はidoll」以外にも数多く存在する。

中にはアーバンギャルドの松永天馬が楽曲提供している「非実在聖少女」やボカロPとしてもヒット曲を生み出し続けるシンガーソングライター・syudouが楽曲を提供、妖艶でクラシカルなゴシックさが印象的な「Melian」など有名アーティストやクリエイターとのコラボレーションによって生まれた楽曲も存在する。

‘‘いないないない 非実在聖少女
いないないない あたしいわゆる少女
ステージの明かりが 灯らないとこで
あたしはいないの わかっているでしょ
カメラのレンズが 映さない闇で
あたしは泣いたり 恋したりしてる’’──「非実在聖少女」

テクノ・ポップのキャッチーなリズムに乗せて偶像として/虚構としてのアイドルの一面を描いていることが窺える「非実在聖処女」。以前に執筆を手掛けた、twinpaleのショートケーカーズの考察でも軽く触れたが、こういった「ステージに立つ少女の二面性」についての描き方はさすが松永天馬としか言いようがない。

兎にも角にも、4人体制のじゅじゅとしてステージの明かりが灯らなくなることを考えてしまうと、この曲を聴く度にどうしても切なくなってしまう己がいることを否めない。しかし初めから実在しないということは、私たちの心の中では永遠に実在する、ということでもある。じゅじゅは解散しても、我々の魂はじゅじゅの楽曲と共にあるというわけだ。

ちなみに、過去には生バンドの演奏をバックにメンバーがパフォーマンスをする「バンドセット・ワンマンライブ」が開催されたり、直近ではメンバーのちゅんが作詞を担当した「余談」が発表されるなど、ビジュアル面でのアピールだけに留まらない積極的な姿勢も窺える。

複数人で活動するアイドルというものは、良くも悪くも集団で生み出す一つのグルーヴが魅力や強みとなるのは皆さんご存知の通りだ。コンセプト色が強いグループであれば尚更のことであろう。

じゅじゅもこの点は然り、現体制の4人だからこそ生み出される世界観がある。ソロ活動も行っているねう、グラビアや広告モデルなどといった実績を持ち、ステージ以外にも活躍の場を広げるゆらねや、女優として舞台に立った経験のあるみおり、自身のアパレルブランド「ium」をプロデュースしているちゅんの各活動にそれぞれの多彩な才を感じると共に、個人的に思うのは、「じゅじゅは4人が集まってこそじゅじゅ」という要素が他のアイドルよりも強いのではないかと言う点だ。彼女たちの個人の活動を見ると、特別ゴシック色が強いわけではない。だからこそ、じゅじゅというグループは4人でステージに立つことで、良い意味で完璧にキャラクタライズされたアイドルとして顕現するものなのではないかと思う。受け継がれてきた8年の歴史に終止符を打つのは、今のじゅじゅでありたいというメンバーの願いが込められた卒業コメントからも、じゅじゅが現体制の4人でじゅじゅであることを感じさせられる。

そして、音楽性という観点で言うのであれば、じゅじゅを初代から守り続けてきたメンバー・ねうは先程も触れたようにソロ名義でも活動を行っている。しかし、その音楽性はじゅじゅとは全く方向性が異なっており、ポエトリーラップを取り入れるなど彼女の透明感溢れる声を活かした、スローで美しい情景を想起させる楽曲がメインとなっている。昨年MVが公開となった「安全地帯」では、ポエティックな歌詞と耳に残るストリングスが印象的なサウンドを紡ぐ。

‘‘赤信号 ぐちゅぐちゅする
青信号 泣いて見える
さらわれた光たちの渦中に飲み込まれていく
帰ろうか 帰ろうか
あの部屋が 安全地帯
ベランダから世界が溢れたら 永遠だよね’’

ちなみにじゅじゅの「零」という楽曲にも「否定は許さないから永遠」というフレーズがあるが、曲調、歌詞の背景ともに全く異なる雰囲気を纏っているところも興味深い。

許されるための安全地帯と、許さないための呪い。相反する2つの顔を行き来する彼女を象徴するように、ねうのソロ衣装はじゅじゅのドレスカラーである漆黒と対であることを意識させるような純白の装いなのも印象的だ。

「呪い」と「アイドル」、相反する両者がもたらした癒し

ステージに立ち、あらゆる音楽と携わるアーティストである限り、いつかは必ず別れの時はやって来る。それはアイドルに限ったことではなく、バンドにもソロ・アーティストにおいても共通することではあるが、アイドルとそのファンが相互に作用する力というのはある種の奇妙さを感じさせるほどに強く、集落のような絆の固さすら感じさせる局面がある。

その関係性は様々なものが簡易化されて、ミニマムでシステム的な側面が拡大されていくこの世の中では珍しいくらいに人為的で複雑なものだ。ファンの心とは不思議なものでビジュアルがただ整っているだけ、歌が上手いだけ、では不思議なことに心は惹かれなかったりする。彼女たちが「呪い」をテーマに扱っているからこそ、垣間見えるその相反性にどうしようもなく惹かれてしまう。明るい話題だけが続くわけではないこの時代を生きる糧として、自身の記憶に残る負の感情を「じゅじゅ」によって暴かれた人々を癒すのもまた「じゅじゅ」なのだ。

彼女たちがラスト・ワンマンでかける最後の呪いは、いつまでも解けずにアイドル界で語り継がれていくと共に、彼女たちの存在が届かなくなってしまった世界で生きる私たちが、この先の未来で胸に抱く幻となることだろう。

すなくじら