時代が変わっても身体は踊り続ける──幾何学模様『クモヨ島 (Kumoyo Island)』

時代が変わっても身体は踊り続ける──幾何学模様『クモヨ島 (Kumoyo Island)』

ついにリリースされた幾何学模様(Kikagaku Moyo)の最新作にしてラスト・アルバム『クモヨ島 (Kumoyo Island)』は、これまで同様オリエンタルでサイケデリックだが、同時に180度異なる音楽でもある。

新年早々に発表された無期限の活動休止宣言に対して、僕が感じていたのは寂しさともったいなさだった。彼らの言う通り、確かに今がキャリアの最高到達点であるだろうし、ここで終われば伝説に近いものとなるに違いない。

しかし、最高到達点の後、人気なり質なりが下降していくならばやめて悪いことはないだろうが、そうなる前に引いていくのは少しズルいようにも思えないだろうか? 下降していかない、更なる高みへとキャリアが上昇していくのであれば、なおやめてしまう必要はないだろう。そのようなことを考えながら、まあ最後と銘打たれたアルバムを実際に聴けば感情が変わるだろう、と待っていたわけだ。

本作を聴いてどのような感情を抱いたか? 彼らの引き際に対する勝手な考え事は無駄だった。早速、素敵な作品について語り合おう。

サイケデリックな長髪男たちが織りなすダンスカラーの冒険

僕の期待は何だったかというと、サイケの王道に歩み寄った前作の上位互換、である。これ以上は求められない。慣れないことをして泥だらけになっているのが最後、というのもかっこいいかもしれないが、いらないことはせず及第点を叩け、そして綺麗に伝説になってほしい、というのが願いだったわけだ。が、この作品で彼らがやらかしてくれたのは全くのおかしな音楽だった。『クモヨ島 (Kumoyo Island)』はこれまでの集大成を、かなりマジに踊れるサイケデリック・ダンス・ミュージックとして構成したものなのだ。

幾何学模様『クモヨ島 (Kumoyo Island)』帯付アートワーク

A面のオープナー・トラック「Monaka」はチャイムが印象的な幾何学模様らしいサイケデリックなイントロから始まるが、本編はこれまでになく日本らしいものとなっている。“モナカナカナカノ”と歌うAメロから、幾何学模様の代名詞とも言える意味のない歌詞を歌謡曲調で歌うパートへと続いていく。歌謡曲調のメロディーが海外へ向けた日本像を象徴する一方、その後の間奏はタイ民謡のモーラムのテイストを強く打ち出したギターを奏でている。また、1曲を通して踊るためのミニマルなリズムが続き、終盤はお馴染みのクライマックスを準備してくれている。

最高の一言に尽きる2曲目「Dancing Blue」は4つ打ちにワウギターなのだが、要はファンキーなハウスである。完全にオーガニックな方角からダンス・ミュージックに接近したことで、本作はIDMやフォークトロニカを1枚隔てた裏側に存在するロック・ミュージックとなっている。後半の展開やギターのニュアンスが、Four TetやCaribouのような大御所と非常に重なるところがあるのだ。

3曲目の「Effe」でも顕著だが、本作での幾何学模様はパーカッションの色彩が多彩である。使用する楽器の多様さはもちろんのこと、ギターやベースなどの弦をリズム楽器として駆使する様や環境音でのアクセントも素敵だ。

アルバムのハイライトの一つに挙げるべきはA面の最終曲「Meu Mar」。ブラジルのシンガーソングライター、Erasmo Carlos(エラスモ・カルロス)の日本語カバーで、“僕の住む場所はいつも海が見える”という詩から始まるこの曲のタイトルはポルトガルで「私の海」という意味。原詩は要約すると「やがて海の見える場所に住むことになる。そこで友人に囲まれ、神の作りし地球を見つめる。いつか神が帰ってくる、平和とギターを携えて」とそういう話なのだが、幾何学模様による詩は方向性をガラッと変えているように聴こえる。そもそも一人称は海の見える場所に既に住んでおり、そこで友達に囲まれ、椰子の木に囲まれながら、静かで平和な日々を送っている。“神の作った地球を見ながら、神の帰りを待つ”というパートは、“広い地球を歩き、自分の家に帰る”という、原詩でいう二人称(つまり神?)の視点に変わっており、その詩は世界中をツアーしてきたバンドの活動休止に重なり、ちょっとした寂しさを起こさせる。だが、“だから今旅立つのさ、本物の音色探して”という言葉からエフェクターを通したギリギリのギターへと展開し、バンドの終焉と共に新たな始まりへの希望も期待させる。

長らく愛してきたバンドが終わるということに対して、僕の中で始まっていた考え事はA面を聴き終わった時点ですっかり見当違いになっていた。やめるのはズルいとか、もっと高みを目指せばいいじゃないか、とかいう外野の野次はすっかり収まり、これは本当に終わりらしい終わりだと決着した。そして音像は固くミニマルになっていき、楽器同士の化学反応は行方の知れない流動的なものではなく、終点への秒読みへと変わっていく。

激しく駆け抜けたキャリアをまとめ上げるように様々な顔を見せるB面

B面の幕開けとなる5曲目「Cardboard Pile」は、スピード感溢れるLa Düsseldorf系のクラウト・ロックからアラビア風の音階のフォーク・ソングへと移行していくもの。その枠にとらわれない構成を見ると、アルバムから最初のシングルとしてカットされているのも頷ける。続く6曲目「Gomugomu」も先の曲と同じようにクラウト・ロックの要素が目立つが、こちらはよりダンサンブルで、Caribouの初期作『The Milk of Human Kindness』なんかに入っていそうだ。「Meu Mar」が幾何学模様の静かで幻想的な様を象徴しているとすれば、「Cardboard Pile」と「Gomugomu」は動のハイライトになっていると言えるだろう。

アンビエントな7曲目「Daydream Soda」と、セッションの一部分を切り抜いたような「Field of Tiger Lilies」の短いインスト曲を挟み、アルバムのクライマックスへ突入する。

9曲目「Yayoi Iyayoi」は、「Meu Mar」の続編かのように静かなバラードを呈して始まるものの激しく揺り動かされる。万華鏡のようにコロコロと展開を変えながら広がっていくが、どこか閉塞感、焦燥感を起こさせるペンタトニックスケールの曲だ。常に日本語が歌われているようには聴こえるが意味は切れ切れにしか掴めず、かろうじてアルバムタイトルを連想する“雲の上から街を見下ろし”などが判別されるだけだ。

バンドはこれまでのキャリアを通して、アンビエントでジャム・セッション・ベースのサイケから、クラウト・ロック、ストーナー・ロックやデザート・ロック系のヘヴィーなサイケ、あるいはインディー・ロックの方面からの評価を高く得たサイケデリック・フォークなど、広いジャンル性を曖昧かつ強固に自らのものにして海外のシーンに地位を築いてきた。そして、その全ての要素がこのアルバムに詰め込まれており、特に「Yayoi Iyayoi」は1曲でこれまでのキャリアを集約したような大作となっている。色々な幾何学模様が存在しており、いずれもいやらしいほど素敵だったと再認識させられる。

また、この曲はもう一つ期待せざるを得ない要素を抱えている、ライブ映えだ。これを5人が演奏しているのを観たらば、どんな天気でもいい気分になってしまう。フジロックのステージはどこなんだろう、僕はフィールド・オブ・ヘブンで夜に観たいなあ。

移りゆく流行の中で錨を下ろすこと

『クモヨ島 (Kumoyo Island)』のフィナーレは、波の音が聴こえるバラード「Nap Song」とジョン・ケージ的アンビエント「Maison Silk Road」で締め括られる。「Meu Mar」に始まり、「Daydream Soda」「Nap Song」など日の降り注ぐ海辺、昼寝の情景が作品を通して一つのテーマのように存在している。しかし、一方でアジアのマイナー音階や、薄暗い曇りのドイツ、日本の景色など、一種の閉塞的な情景も彷彿とさせる。「Maison Silk Road」はその両方の側面から静かにカーテンを閉じるように音を重ね、一音ずつピアノを鳴らしながらフェードアウトしていく。

幾何学模様

このアルバムは永遠に不変だろうと思った。インタビュー(YouTube)でも語られていた通り、サイケ・ロックやインディー・ロックだって流行りがあり、やがてそれも完全に終わってしまう。この作品はギリギリ流行の波間に位置しているだろうが、バンドの活動が止まってしまえば『クモヨ島 (Kumoyo Island)』は永遠に彼らの最後の状態として残っていく。時代によってアップデートされていくことはあり得なくなるのである。そんなことを念頭に置いて、このアルバムはジャンルレス(あるいは過多)で無色になっているのではないだろうかと思ったのだ。そしてさらに、電子音楽やダンス・ミュージックに近づいていることも、時代の変化に対して強い。流行りは変わってもこういう音楽を聴いたら、人間は勝手に身体が動くわけである。そりゃどこで聴いても楽しくなるに決まっている。

と、色々書いたけれど終わってしまうと思うと寂しくて寂しくて仕方がない。フジロックでもう目に耳に焼き付けたい。

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幾何学模様『クモヨ島 (Kumoyo Island)』

Label – Guruguru Brain / Beat Records
Release – 2022/05/06(Digital)・2022/05/25(CD)

鈴木レイヤ