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我々の存在の在処を光り輝かせる慈愛の讃歌──ART-SCHOOL『luminous』

By竹下力

ART-SCHOOLの通算10枚目のアルバム『luminous』が6月14日(水)にリリースされた。2019年に活動を休止し、昨年『Just Kids .ep』を発表して活動を再開。アルバム発売前にライブスケジュールの発表や様々なメディアでの露出が増えたことも踏まえると、新たなスタートを遂げたと言っていいだろう。ART-SCHOOLは、ソロシンガーとして活動していた木下理樹が2000年に結成し、『DIVA』(2002)でメジャー・デビューしたオルタナティヴ・ロック・バンド。現在は木下理樹(Vo./Gt.)、戸高賢史(Gt.)を中心に、サポートに中尾憲太郎(Ba.)、藤田勇(Dr.)という布陣で活動している。さらに今作では、シンセサイザーにメレンゲのクボケンジ、コーラスにUCARY & THE VALENTINEが参加している。今作は、「最高に純度が高い、ART-SCHOOLのアルバムを作るんだ」という木下の強い意志が現れたコメントもあるように、彼らにしか鳴らせない音と声と歌詞が詰まった素晴らしい作品となっている。

己の居場所が消失していく悲しさをART-SCHOOLは慰撫してくれた

「あなた」の存在が怖くてかくれんぼをしたかった訳ではない。「あなた」の言葉や行為が痛くて逃げたかった訳でもない。なのに、いつの間にか暗がりの中に座って悲しみに暮れて泣いている心許ない孤独な我々がいる。「私」は「あなた」に憧れているのに近づけない、だから自分が消えてしまう、そんなことを思っている我々に「大丈夫。君はそこにいるよ」と自己の在処を見つけてくれた存在がART-SCHOOLだった。現実が押し付けてくる否応なしにリアルな痛みが世界を覆い尽くし、個を消し去ってしまっても、我々に「ここ」にいても安全だと思わせてくれる。彼らは我々の消失しそうな「自我」にギターの轟音や煌めくメロディー、バウンスするベース、そしてドラムと咆哮で輪郭を与えてくれる存在だった。ART-SCHOOLが孤独な我々を見つめて発見してくれることで私は「ここにいる」ことを知るのである。

我々は「見る/見られる」という関係において一種の共同体を作っている。村や街という現実の場所においての共同体の崩壊は明らかになっているけれど、それを腑分けすれば、必ずそこに「あなたと私」の居場所がある可能性を見出すことができる。これは様々なコンテンツを見れば明らかだ。それでも、我々は傷つき、汚れながら、同時に「あなた」も傷つけてしまい、その永遠のループの中で共同体から弾かれて孤独になってしまうといったような「業」も存在する。例えば、学校で誰かを傷つけて自分の居場所を失った時、恋人に捨てられた時、家族と離れた時。言い換えれば、我々は強引に見られるという行為を奪われる、あるいは自ら奪い去ることによって、己の居場所が消失していく悲しさを必然的に身に纏う存在なのだ。ART-SCHOOLの初期の被虐性を纏った歌詞や尖った音がなぜか心に刺さるのは、どうしようもない葛藤を抱えた「私たち」を木下が見つめていたからに他ならないだろう。そのおかげで我々は「自分が自分である」ことの意義を知るのだ。だから、彼らが活動休止になってしまった時、寄るべのない我々には、どこか孤独で悲しい存在になってしまう瞬間があった。そこには消失していく感覚を覚えながら生を紡ぎ、この世界で必死に生きていた「あなた」だって含まれているはずだ。

今作の芳醇さと繊細さには言語化しづらいところがある。思い入れの深いバンドのアルバムを聴いた時、特段、無意識に音楽から受けた感銘を一言で表現してみたい欲望に駆られることがある。必ずしも、それを口にすると世界がガラリと変わってしまう、すごい一言である必要はない。ごくごく地味で、ありきたりな言葉で構わないと思う。だが、今作に関してはなかなかその言葉が出てこない。確かに、部分的に表現できるところはある。ベースの中尾憲太郎のあまりにも彼自身のシグネチャーが刻まれたルート弾き。手数の多さが垂直な感性をダイレクトに我々の心に突き刺す藤田勇のドラミング。美しいフレージングがいくつもの妖艶な刃となって我々をストリップダウンさせるような戸高賢史のギター。そして、繊細でいて安定感がありながらどこか壊れそうな木下理樹の声。

そうやってART-SCHOOLという存在は微分が可能であるのだが、総体としてのART-SCHOOLを描くことは難しい。このもどかしさが彼らのシグネチャーなのかもしれない。つまり、彼らと我々の関係性は、緊密なものになっている。それはすなわち、彼ら自身が他ならない私たち自身にもなっているからだ。「我々はどこから来て、どこにいくのか? そして我々は何であるのか?」という人間の本質への問いが、彼らと我々の関係の中でぶつかり合い、歪み、捻れて、彼らと我々に再発見されることによって、「私とあなた」という関係=共同体が顕になるのである。その関係性は、まるで恋人のようだし、家族のようでもある。だから、彼らのことを言葉にできない瞬間が生まれてくる。あまりにも「私」であり「あなた」でもあるからだ。「私」と「あなた」の差異は決定的に壊れることのない強固な繋がりになっていく。もちろん、既に彼らの音楽は「あなた」と「私」という関係を超えた一体感をもたらす音や歌詞であるため、本作から聴いたとしてもおそらく、彼らの共同体に抱合されるだろう。彼らの音楽はアメーバのように増殖しながら我々の心の襞に侵食する普遍性を持ち始めたのだ。

木下の特徴である異文化との接触・触発というのが彼のテーマ

「Moonrise Kingdom」(M1)の冒頭から、木下の特徴である異文化への接触と触発という彼のテーマが素直に顕になっている。ギターのノイズが渦巻き、軽快なビートにのせながら、イカロスの神話が語られ、蝋の羽が燃え尽きた絶望を歌ったかと思えば、虹の神であるアイリスが登場する。その絶望と希望の出会いと別れの必然が的確に捉えられている。木下は様々な映画や音楽、小説などのリファレンスをしながら、異文化というものを己の言語に落とし込み、それを翻訳した時に生まれる位相の違う世界観を彼の感性によって縫合したときに起こるノイズを鳴らす。それは我々を惹きつける求心力となって独特なエロスを醸し出している。彼らの曲を聴くと、気づけば異国にいて孤独な個を晒しながら「あなた」を追い求めている自分を見つけることとなる。つまり、彼が己の異文化を翻訳して自らの言語に置き換えた時、同時に我々の言葉に出来ない不可解な心の有り様も翻訳されていくということだ。

「ブラックホール・ベイビー」(M2)は、今作の中で、唯一英語表記ではない最もアグレッシブな曲だ。中尾憲太郎のベースとギターのノイズ、タイトなビート。そして〈チャイナタウン〉〈射撃隊〉〈バレリーナ〉を含んだ歌詞は飛躍し、それがブラックホールに逃げ込んでいきたいという願望を感じさせるところにカタルシスが生まれ、そこに我々は共感するだろうし、彼の我々への慈しみに似た視座が垣間見えるのだ。

「Bug」(M3)は、アグレッシブなギターが印象的で、〈いつか俺は壊れた/何もかもが怖くって〉とあるけれど、それは木下の直接的な経験によるデスパレートな感覚の発露かもしれない。そんな想いをぶつけるところに本作の特徴があると思う。何かをことさら秘密めかす訳でもなく、ひたすら実直に音や言葉を紡ぐ。この世界に良いことなんか何一つないけど、光に誘われて飛べる虫にはなれるという諧謔的な表現は彼の必然的に抱える内的宇宙であり、か弱き人間の縁になっているのだ。それは他ならない「私」であり「あなた」でもある。

「Adore You」(M4)は、あなたを崇拝するという意味で、私情が相手の感情にめり込むという彼特有の「あなた」と「私」の同一化が図られる表現だ。バウンスする歪んだギターやベース、ドラムに合わせて〈僕は描いた/二人だけの宗教画〉という歌詞が、人間の崇高な部分が汚れ、穢れていく様の中にこそ「生の有り様」が現われてくるという彼の哲学を浮き彫りにしているようにも思う。今作においても、汚れや憎しみを抱えた存在だとしても人間でいられるという人間存在の価値へのリプレゼントがなされている。

「2AM」(M5)は、美しいギターのアルペジオから始まる曲で、〈僕の事を消さないで/どんな傷も消さないで/僕の事を消さないで/見ていて〉とあるように、彼は自分が「見る」存在であるのと同時に「見られる」存在であることも理解している。それはこの活動休止の期間を通して、彼は自分が他者から見られることによって自己が存在していることを改めて知ったのではないだろうか。

『14SOULS』(2009)の「Grace note」(M13)以来、14年ぶりにギターの戸高賢史がメイン・ヴォーカルを務める「Teardrops」(M6)は、曲の構成は我々が大好きなART-SCHOOLで、LOVEもHATEも同居しているディストピアな世界からの再生が歌われる。揺らぎのない朗らかな戸高の声は、曲の世界観に対する説得力を与えるというよりも「生の実感」を生々しく表現しているように聴こえる。

ART-SCHOOLがなぜにART-SCHOOLであるのかの旅路が始まる

「Teardrops」という戸高のヴォーカル曲から、ART-SCHOOLがなぜにART-SCHOOLであるのかの旅路が始まる。「I remember everything」(M7)でもエゴン・シーレと思わしい言葉が出てくるあたり、海外の文化を吸収し、それを彼のシグネチャーと混ぜ合わせ、どんな人間とも共同体を作り上げてしまう手法は存分に発揮されている。いわばここで木下の平等主義が垣間見えているのだ。

「Heart of Gold」(M8)は、こちらも戸高賢史がヴォーカルを務めているが、誰かに「あなたを見つけた」と言ってもらった時の心の喜びが描かれている曲で、「太陽みたいなその声が聞こえた気がして」という歌詞に今作のテーマが集約されていると思う。パワー・コードの煌めく曲で、とてもシンプルで力強い。

本作は収録されている10曲のうち6曲が2分台。まさに彼らの想いが純度の高い結晶のように詰まっているアルバムと言えるだろう。同時に、戸高の存在が今作ではとても重要だということも見て取れる。それはこのART-SCHOOLの中においての、純然たる他者として、バンドを見つめる「目」となっているからだ。

ART-SCHOOLでなければ鳴らせない純然たる音楽

「End of the world」(M9)はシンセの音が鳴り響く「世界の終わり」を描くゴスペルソングのようだが、そこには生の高揚よりも静けさがある。たとえ世界の終わりにいたとしても、「あなた」は「あなた」であり、「私」は「私」であるという人間に内在する強さを感じることができる。

「In The Lost & Found」(M10)は、スネアの音が前面に出ていて我々の心音のように鳴る藤田勇のドラムと中尾のベースが丁寧に支えるロックソングだ。ここまで4人のケミストリーが濃密になったアルバムはこれまでなかったような気がする。木下だけでない、メンバーそれぞれの感じたこと、やりたいことが絡み合っている。その強固な関係性は、我々にも敷衍され、「私」という自己の欠片を我々の心に刻むことが出来る。それを彼らが称揚することによって、「私」は新しい「私」になれるのである。そして新たな自己を見つけた我々は、「あなた」を求める旅に出るだろう、私が「ここにいる」ことを証明するために。要するに受動から能動という変化が我々に訪れるのである。

今作のタイトルである『luminous』は「発光」と訳すことができるが、彼らはまさに暗がりでかよわく自己の存在を発光させている我々を見つけ出してくれる。我々はたとえどんなに弱く小さな孤独な存在だとしても暗闇の中で生きている。今作での木下は、混沌や苦悩を吐き出すよりも、優しさと慈しみに満ちた柔らかい目で我々を発見することで、我々自身の存在をこの世界に焼き付けたのだ。そして我々は彼らと共に明日へと時を紡いで行くことができる。この安堵感は、ART-SCHOOLでなければ奏でられなかっただろう。ART-SCHOOLそのものの音楽として、この不確かな世界において新しい道標を示してくれた。こんな機能不全の世界で、今作はただ我々に寄り添って、自分が自分であることを尊く思い計ることの強さを教えてくれる。そして「私」が「ここにいる」ことを忘れ去りそうになる時、彼らは私たちを見つめながら、私が消えないように「あなたは確実に生きている」と歌い続けてくれるのだ。

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竹下力

1978年6月27日生まれ、静岡県浜松市出身。出版社勤務を経て演劇・音楽系フリーライターに。90年代半ばに『MTV japan』に出会い音楽に目覚める。オアシス、ブラー、レディオヘッド、サウンドガーデンやスマッシング・パンプキンズとブリット・ポップやオルタナティヴ・ロックに洗礼を受け、インダストリアル・ロックにハマり、NINE INCH NAILSの虜になる。BOREDOMSのEYEと七尾旅人がマイヒーロー。

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editor

1996年10月2日、愛媛県新居浜市大生院生まれ。タイ国立カセサート大学農学部卒業。小説家。

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